安倍晋三元首相が会長となって初めての清和政策研究会のパーティーが6日、開かれました。清和会は福田赴夫元首相が創り、1991年に清和会会長だった父・安倍晋太郎氏が亡くなった後、三塚博、森喜朗、小泉純一郎、町村信孝、細田博之各氏が会長を引き継いだ後、この秋、細田さんが衆議院議長となり、安倍元首相が跡を継ぎました。30年の時を経て、二度目の「安倍派」となったわけです。この会合では、そうそうたる顔ぶれが挨拶し、60年にわたる自民党の派閥の綾に触れました。

 私は朝日新聞記者時代、三塚派を担当していました。

 「政界のプリンス」と言われ、次の総理を目指していた安倍晋太郎氏のがん闘病と死去は派閥にとって大きなショックでした。

 

 安倍会長は挨拶で、日本をめぐる安全保障環境が厳しくなっていることを指摘。総選挙の公示日に北朝鮮がミサイルを発射、中国は30年間で軍事費を42倍に増やし、軍事力を背景に南シナ海や尖閣諸島で一方的な現状変更の試みを続けていることや、10月には中国とロシアの軍艦10隻が演習をしながら日本列島の周りを一周したことなど、最近の軍事的脅威を時系列で詳しく並べました。

  「しかし、1978年の日中平和友好条約を結んだのは清和会を作った福田赴夫総理であり、その時の官房長官が安倍晋太郎、副長官が森喜朗元総理でした。

 その条文で中国はソ連を念頭に『覇権を許さない』という内容を入れようとし、日本は当初、特定の国のことに触れるのは良くないと反対しましたが、知恵を出し合い、最終的には盛り込みました。『両国は覇権を追求しない』『他国の覇権確立の試みに反対する』と書かれています。このときの精神を中国にも思い起してもらいたい」と述べました。現在の中国の覇権主義を考えると皮肉な話です。

 

 細田議長は「1990年に初当選。そのときの会長が安倍晋太郎さん。当選同期で残っているのは、他派閥や他党に移った人を別にすれば、塩谷立さん(清和研会長代行)だけ。安倍晋太郎会長が翌91年に病気で亡くなられた、その時67歳。今私は77歳ですから本当に若く亡くなられて・・・」と述べました。

 

※私の<注> 

 安倍晋太郎さんは平成2年のこの選挙で病床を脱け出し、全国を駆け巡って応援。21人の新人を当選させました。その1人が細田さんでした。他派閥は古屋圭司衆議院議員、他党とは、最近まで立憲や国民にいた増子輝彦参議院議員(福島)のことと思われます。

 

 安倍晋太郎会長が亡くなったあとは、激しい後継争いが展開され、その後、野党転落のきっかけをつくった宮沢政権末期、いくつかのグループが清和会を飛び出し、さらに私が当選する前にも、亀井静香さんや河村建夫さんのグループが出ていくなど、総理派閥となる前は分裂の歴史が続いたのです。

 

 岸田文雄総理は「英国で開かれたCOP26に滞在8時間で出張した。いろんな首脳から『シンゾーは元気か?』と尋ねられ、ある首脳からは、『シンゾーから国政選挙に連続6回勝った秘訣を聞いた』と言われました。私はまだその秘訣を聞いていません」と安倍会長を向いてお辞儀しました。

 「清和研の源流である党風刷新連盟を福田赳夫さんが昭和37年につくられたが、これは(宏池会をつくった)池田勇人(元首相)の『所得倍増計画』をつぶすためのものだった。

60年たった今、最大派閥の安倍会長が私の政権を支えてくれるというのは非常にありがたい。清和研は勢いがあり、この選挙で当選した新人も続々加入している。うちもおこぼれを欲しいぐらい」と挨拶しました。

 

 麻生太郎副総裁は「『副総裁』として話すのか、第二派閥の為公会(麻生派)の会長として話すのか、それが問題ですが。副総裁というよりは、安倍総理のもとで財務大臣を長くやらせてもらい、その時に日本の経済は大きく回復した。

 今回の選挙は「気をつけよう、暗い夜道と3回生」と言われ、3回生は清和研が最も多かった。しかし3回生全体の当選率はなんと94%もあった」と話しました。

 

 山口那津男公明党代表や、茂木敏充幹事長、高市早苗政調会長なども来賓として出席し、高市政調会長は「池田総理の時代に生まれ、所得倍増計画の恩恵に預かった」と語りました。

 

 私は11月から派閥の副会長を務め、安倍新会長を支えていきます。

 

 

<後日談>

 9日の清和研総会で安倍会長はパーティーを振り返り、「(岸田総理が)『選挙に勝つ方法を教えてほしい』と言ったところで場内がわきましたね。岸田さんとは長い付き合いですが、これまでで最も面白いジョークでした」と、ここで会員一同大いに笑いました。岸田総理は実に生真面目な人で、冗談を言うところを見た人はほとんどいないのです。安倍会長は「この前の選挙で大勝したから私に聞く必要もないけれど」と付け加えました。