今日は僕の人生を構成する大好きな人の誕生日だ。
そんな日だから、いつか文字に表したいと思っていたその人の出てくる映画の感想をここで文字に起こそうと思う。
ゆるやかに踊る心を空色のガラス瓶に詰めたらどうなるんだろう。そんな問いに答えてくれるような、特別な映画。何にも代えがたい作品。無邪気で豊かな燐光と、飛び立つ青い羽根と、淡い夕日に包まれた静寂が空間を覆い、少しでも触れれば崩れる硝子細工じみた静謐で美麗な雰囲気を持っている映画だった。
正直、映画を見終わった直後の気持ちをそのまま真空パックして永久保存しておくのが1番健全な事かも知れない。
とても言葉では表現不可能なこの気持ちを言葉で語ることなどもはや野暮なのかもしれない。でも、この作品を見たこと聴いたこと感じたことその遍く全てを忘れたくない。
この初めての気持ちを忘れたくない。そんな思いを映画を見て抱くなんて本当に人生で初めてだった。
アニメ本編の青春群像劇とは打って変わり、たったふたりの関係性にフォーカスしたミニマリズムな物語が凝縮されていた。全てのカット、シーンがふたりの気持ちを詳細に映し続け、ドロドロとした生々しい人間そのものの感情を浮き彫りにしていた。淡々とした世界に全てがあるべき場所に存在していた。
どれだけ仲良しでも一生同じ道を歩くことなんて出来ない、いつかは別々の道を行かなければならない。そんな高校3年生が抱きがちな等身大の思いを完璧なまでに痛いほどに描き、別れと向き合い受け入れるまでの静かで淡々とした儚い2人だけの友情の物語だった。
別れが寂しいのはその別れが永遠になってしまう可能性を孕んでいるからで、その恐ろしさに気付くことができるのは永遠に別れてからになってしまう、この残酷さに別れない内は気付くことすら出来ないこの事実もまた残酷で、大切じゃないものは失う事もない。
映画後半の演奏シーンの神がかった表現が頭から焼き付いて離れない。吹奏楽部全員での合奏だったはずなのに、途中からたった2人だけの世界がそこにはあった。
2人の関係性は儚さや切なさ、そんなこの世に存在するような陳腐な言葉では説明出来ないとまで思わせる全てがあった。
およそ映画を見終えた後の気持ちでは無い別の何かが心を支配していたのを覚えている。まるで美術館で額装された美しい絵画と一対一で対峙している時、美しい詩を読んだ時、この世のものとは思えない絶景を見た時…例えるならそれらに近い。およそカタルシスなんてものは湧いていないのに涙だけがこみ上げ続ける。
自分の人生が停滞していた晩夏にこの映画を見た時、居ても立っても居られなくて深夜なのに家を飛び出て近くの川で友達に電話した日を昨日のように思い出せる。
あの瞬間はどんなに遠く手を伸ばしても実在していないのだから触ることができない映画と否が応でも地続きである事を認識させられる今までの人生が確かに2つ目の前にありそれら2つが重なり合っていた、『今日のために生きてきたんだな』と感じるような万能感があった、『この為に生きてきたんだな』とまで思えるようなある種の快感さえも感じていた。
何処に行けば彼女たちに会えるのだろうか、永遠に会えないのは分かっているが足はそちらを向かい、体は動いてしまう。
京都の地に何回も出向き、彼女たちの生活の足跡をずっと探してしまう、その青春の残滓に自ら気が狂いに行ってしまう。
そして、この映画はハッピーエンドでもバッドエンドでもない。
勿論それを自分は肯定している、この作品は2人の少女の生活を描いているのだ。
ありふれる様な日常であってその日々自体は奇跡ではない、ただ2人の世界が特別なだけなのだ。
何年続くか分からないが、幾層にも重なる情報量の中で2人の人生が交差した瞬間から育つお別れまでの尊い瞬間を覗き見ているだけにすぎない、彼女らの人生の中の高校生の時間のまたその中の1年間のほんの1ページを見ている。
彼女たちは確かにそこに生きている、生きていたのだからハッピーエンドやバットエンドでもなく緩やかに続く人生の一幕を切り取った描き方をしている。
最後の彼女の笑った顔を見たのはこの世界でただ1人であるから良いのだ。
これから彼女達の人生に何が待っていて、それは時に立ち尽くす事しか許されない大きな絶望と顔を合わせてしまうかもしれない、でも、この瞬間、ただこの瞬間には彼女達には、5月の木漏れ日が差し込む午後みたいな顔してて笑っててほしい。
いつか時間が経って、君が微睡んで、起きたときにはもう自分はカーペットとフローリングの間に沈んでほどけていて、それに気づいて流れるまつ毛を指でなぞるような、どこにでもあって、ありふれていてそれでいて何処にもなくて触れない、そんな奇跡のように愛おしい存在であってほしい。
色々と長々と書いたがシンプルな感想として「なんてもの見てしまったんだ。気が狂いそうなほど美しいものを」というのが精一杯の気持ち。後はもうため息しか出ないし、誰かに救いを乞うことしか出来ない。いっそ殺してくれとすら思う。この気持ちのまま今すぐ死ねば良い人生だったと振り返れる。
自分は『美しい』という形容詞の奥深さと残酷さについて常々逡巡しているが、この映画に関しては己の持てる語彙力と経験そして知識を全て手放しにして、過去も未来も無視して心の底から『美しい』と勝手に吐露してしまう。
これからもこの映画には僕の中で精神安定剤として機能していくだろうが、それは奇跡のように近しい存在ではなく、運命のような遠い存在でもなく、ただただそこにいて欲しいだけ。
自分が何も気にせず心の底から美しいと呼べるものがあり、愛おしいと思える対象がある、この事実がどれだけの力を持って生きる目的になってくれるかを僕は知っている。
そしてそれがこの映画である事も知っている。
大切なものはお別れをしてもいつまでも大切

そんな日だから、いつか文字に表したいと思っていたその人の出てくる映画の感想をここで文字に起こそうと思う。
ゆるやかに踊る心を空色のガラス瓶に詰めたらどうなるんだろう。そんな問いに答えてくれるような、特別な映画。何にも代えがたい作品。無邪気で豊かな燐光と、飛び立つ青い羽根と、淡い夕日に包まれた静寂が空間を覆い、少しでも触れれば崩れる硝子細工じみた静謐で美麗な雰囲気を持っている映画だった。
正直、映画を見終わった直後の気持ちをそのまま真空パックして永久保存しておくのが1番健全な事かも知れない。
とても言葉では表現不可能なこの気持ちを言葉で語ることなどもはや野暮なのかもしれない。でも、この作品を見たこと聴いたこと感じたことその遍く全てを忘れたくない。
この初めての気持ちを忘れたくない。そんな思いを映画を見て抱くなんて本当に人生で初めてだった。
アニメ本編の青春群像劇とは打って変わり、たったふたりの関係性にフォーカスしたミニマリズムな物語が凝縮されていた。全てのカット、シーンがふたりの気持ちを詳細に映し続け、ドロドロとした生々しい人間そのものの感情を浮き彫りにしていた。淡々とした世界に全てがあるべき場所に存在していた。
どれだけ仲良しでも一生同じ道を歩くことなんて出来ない、いつかは別々の道を行かなければならない。そんな高校3年生が抱きがちな等身大の思いを完璧なまでに痛いほどに描き、別れと向き合い受け入れるまでの静かで淡々とした儚い2人だけの友情の物語だった。
別れが寂しいのはその別れが永遠になってしまう可能性を孕んでいるからで、その恐ろしさに気付くことができるのは永遠に別れてからになってしまう、この残酷さに別れない内は気付くことすら出来ないこの事実もまた残酷で、大切じゃないものは失う事もない。
映画後半の演奏シーンの神がかった表現が頭から焼き付いて離れない。吹奏楽部全員での合奏だったはずなのに、途中からたった2人だけの世界がそこにはあった。
2人の関係性は儚さや切なさ、そんなこの世に存在するような陳腐な言葉では説明出来ないとまで思わせる全てがあった。
およそ映画を見終えた後の気持ちでは無い別の何かが心を支配していたのを覚えている。まるで美術館で額装された美しい絵画と一対一で対峙している時、美しい詩を読んだ時、この世のものとは思えない絶景を見た時…例えるならそれらに近い。およそカタルシスなんてものは湧いていないのに涙だけがこみ上げ続ける。
自分の人生が停滞していた晩夏にこの映画を見た時、居ても立っても居られなくて深夜なのに家を飛び出て近くの川で友達に電話した日を昨日のように思い出せる。
あの瞬間はどんなに遠く手を伸ばしても実在していないのだから触ることができない映画と否が応でも地続きである事を認識させられる今までの人生が確かに2つ目の前にありそれら2つが重なり合っていた、『今日のために生きてきたんだな』と感じるような万能感があった、『この為に生きてきたんだな』とまで思えるようなある種の快感さえも感じていた。
何処に行けば彼女たちに会えるのだろうか、永遠に会えないのは分かっているが足はそちらを向かい、体は動いてしまう。
京都の地に何回も出向き、彼女たちの生活の足跡をずっと探してしまう、その青春の残滓に自ら気が狂いに行ってしまう。
そして、この映画はハッピーエンドでもバッドエンドでもない。
勿論それを自分は肯定している、この作品は2人の少女の生活を描いているのだ。
ありふれる様な日常であってその日々自体は奇跡ではない、ただ2人の世界が特別なだけなのだ。
何年続くか分からないが、幾層にも重なる情報量の中で2人の人生が交差した瞬間から育つお別れまでの尊い瞬間を覗き見ているだけにすぎない、彼女らの人生の中の高校生の時間のまたその中の1年間のほんの1ページを見ている。
彼女たちは確かにそこに生きている、生きていたのだからハッピーエンドやバットエンドでもなく緩やかに続く人生の一幕を切り取った描き方をしている。
最後の彼女の笑った顔を見たのはこの世界でただ1人であるから良いのだ。
これから彼女達の人生に何が待っていて、それは時に立ち尽くす事しか許されない大きな絶望と顔を合わせてしまうかもしれない、でも、この瞬間、ただこの瞬間には彼女達には、5月の木漏れ日が差し込む午後みたいな顔してて笑っててほしい。
いつか時間が経って、君が微睡んで、起きたときにはもう自分はカーペットとフローリングの間に沈んでほどけていて、それに気づいて流れるまつ毛を指でなぞるような、どこにでもあって、ありふれていてそれでいて何処にもなくて触れない、そんな奇跡のように愛おしい存在であってほしい。
色々と長々と書いたがシンプルな感想として「なんてもの見てしまったんだ。気が狂いそうなほど美しいものを」というのが精一杯の気持ち。後はもうため息しか出ないし、誰かに救いを乞うことしか出来ない。いっそ殺してくれとすら思う。この気持ちのまま今すぐ死ねば良い人生だったと振り返れる。
自分は『美しい』という形容詞の奥深さと残酷さについて常々逡巡しているが、この映画に関しては己の持てる語彙力と経験そして知識を全て手放しにして、過去も未来も無視して心の底から『美しい』と勝手に吐露してしまう。
これからもこの映画には僕の中で精神安定剤として機能していくだろうが、それは奇跡のように近しい存在ではなく、運命のような遠い存在でもなく、ただただそこにいて欲しいだけ。
自分が何も気にせず心の底から美しいと呼べるものがあり、愛おしいと思える対象がある、この事実がどれだけの力を持って生きる目的になってくれるかを僕は知っている。
そしてそれがこの映画である事も知っている。
大切なものはお別れをしてもいつまでも大切
