松本にある信州大学の会議室で、ちょっとした会議があった。
発言機会もなく、僕がいてもいなくてもいいような会議だったけれど、会社の都合で出席する必要があった。


午後7時頃に会議は終了し、そのままエレベーターに乗った。次々と人が乗ってくる。
「まだ乗れるかな?ブー。」などと自分で言いながら乗ってくるおっさんたちを「諦めろよ」と少しあきれた気分で見ていた。
エレベーターのなかには、何人かの女性も乗っていた。
だんだんと個々のスペースが狭くなり、それでもおっさんたちは乗るのをやめようとしない。満員電車に押し込まれたような感じになった。


僕の肘が、後ろの人の体に押しつけられる形になって、そのまま動かせなくなった。
どうも後ろの人の胸に当たっているらしく、それがすごくでかい胸で柔らかかった。
「これはすごくまずい状況だ」と頭のなかで考えていた。


ドアが閉まり、エレベーターの階を示すランプの位置が、だんだんと下の階に移っていくのを、冷や汗をかきながら見ていた。


1階に着いて、みんながエレベーターを降り、僕も前の人に続いて、すぐに降りた。
別に顔を見るつもりはなかったけれど、エレベーターを出て、つい振り返って、その豊満なバストの持ち主を見た。


おっさんだった。随分と太っていて、確かにDカップくらいありそうだった。ほっとしたけれど、どこか悔しい思いがした。


今週は会社でちょっとしたイベントもあった。外部の人も何人かが来て、一緒に作業をした。
作業をしている人たちのなかに、かわいい子がいた。


「かわいい子がいるなあ」と思って、それで少し彼女を見ていた。彼女の着ていた服の背中には、生理用品のソフィーのパッケージのような羽のマークが大きく描かれていた。そしてその羽に囲まれて、「ONANY SUNDAY」という文字が大きくプリントされていた。


「オナニー・サンデイ?」そう読んでしまってから、僕は少し考えてしまった。
一緒に作業をしていた男の同僚と「あれは、どういうことなんだ?」と話し合った。
「どういう意味ですかって聞いて来いよ。」
「聞けませんよ。そんなこと。」
彼女を見るたびに、必要以上に心拍数が上がった。


謎は解けないままイベントは終了し、数10メートルの範囲内で一緒に作業をするという僕たちの関係も終わった。彼女は素敵などこかの世界へ旅立ち、僕はいつもの世界一つまらない世界に戻った。


そして、「ONANY SUNDAY」は「オナニー・サンデイ」ではなく、「オン・エニー・サンデイ」と読み、毎週日曜日に開催されているアメリカのオートバイレースを描いた映画のタイトルだということを知った(邦題は「栄光のライダー」)。
俺も本当に大バカだと反省した。


もう何十年ぶりだろうか。久しぶりに岡崎京子のマンガ「くちびるから散弾銃」(講談社)を読んだ。特別記念復刊したのだという。


My Kiasu Life in JAPAN-くちびるから散弾銃

岡崎京子を読み出したのはこの本が最初だった。それ以来、彼女のマンガは片っ端から読んだが、人に貸したのかあげたのか、もう手元に残っているものは少ない。


彼女の「へルター・スケルター」は最近になって沢尻エリカ主演で映画化されたが、僕はあまり興味がない。彼女の作品では、初期の頃の「くちびるから散弾銃」や「PINK」の方がPOPで、鮮やかで好きだ。


おそらく、この「くちびるから散弾銃」という題名は、60年代のフランス映画「唇からナイフ」から取ったのだと思う。


My Kiasu Life in JAPAN-唇からナイフ

この手の映画には決して近づかないが(僕にはきっとつまらない)、客観的にはセンスのいい映画らしい。


久しぶりに「くちびるから散弾銃」を読んで、自分が細部に至るまで、随分と覚えていることに驚いた。
今後、「ジオラマボーイ・パノラマガール」も復刊するらしい。また買ってしまいそうだ。


木山泰嗣の「弁護士だけが知っている反論する技術」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も読み終わった。


My Kiasu Life in JAPAN-反論する技術

少しは得るものがあったのかもしれないが、読んでいてそれほど見事な反論の技術といったものはなかった。現実には一休さんのような鮮やかな反論よりも、こういった地味な反論の方が効くのかもしれないが、大した技術でもないし、面白くもない。


また、裁判ならいざしらず、実際に僕に持ち込まれるゴタゴタのほとんどは感情ばかりが先走っているクレームが多く、そもそも理屈で解決できる問題が少ない。そしてこの本では感情の問題は無視しているので、僕が実際に役に立てられる部分は少なかった。


ただ、「7割近くの人が賛成しています。」という言葉は、「3人に聞いて2人が賛成すれば66.6%」だから、成り立つのだという説明には「なるほど」と思った。実際に、「統計の数字は前提をよく聞かないと信用できない」という趣旨の話し合いをしたときに、例えば、ということで、この例を使わせてもらった。説得力のあるいい例だ。


確率の話しといえば、今週はヒッグス粒子が「ほぼ確実に」見つかったが、その確率は99.9999%だった。昨年の12月にも98.9%の確率で見つかっていたが、そのときは発見の「きざし」と発表されていた。


今年中には、確実に発見できるということらしいが、物理学者の発見という定義は、どれだけ厳しいのかと思う。正直いって、ヒッグス粒子そのものも理解不能だが、この確率の問題からして理解ができない。


後藤武士の「読むだけですっきりわかる日本史」(宝島社)も読み終わった。


My Kiasu Life in JAPAN-読むだけですっきりわかる日本史

日本の歴史をそのままわかりやすく解説した本で、最後までスラスラと読める。
重要な年号は語呂合わせで覚えられるように文中にも載っていて、こういう本を小学生か中学生の頃に読んでいればなあ、と悔しい思いがする。


ポツダム宣言というのは7月に出ていたのだけど、それを日本は戦争責任を取るのを嫌がって無視し、8月に2発の原爆を落とされてから、ようやく受諾を決定した、という事実を今頃知った。


大きな政治的な失敗をしたときに、誰も責任を取ろうとしない国であることは、旧憲法時代からの伝統だったのかと残念に思ったし、未だにその当時の政治家の子孫が、相変わらず日本を牽引していることに気がついたりした。


この本を読みながら、歴史というのは、自分の生い立ちを聞くようなものだということがわかった。今まで、歴史の勉強がいったいなんのためになるのか不明だったし、歴史好きという人を不思議な気持ちで見ていたけれど、彼らがどうして歴史に興味を持つのか、その理由が少しわかったような気がした。


「50/50」という映画をDVDで見た。

My Kiasu Life in JAPAN-50/50

27才で死亡率50%のガンにかかった男とその友人の物語だ。
美人ばかりにモテることを除けば、この話しの主人公の性格は僕に近いものがあって、共感ができた。


My Kiasu Life in JAPAN-50/50 1

先日、英語の教材を読んでいたら、ガン宣告を受けた後、患者のほとんどはネットを見て自分の病気を調べる、ということが書いてあった。
この映画でも主人公はネットを見て、死亡率50%ということを知る。


My Kiasu Life in JAPAN-50/50 2

問題は、ネットにガン患者を食い物にしようとする詐欺的治療法が山ほど載っていることで、それでお金をムダにしてしまう人が多いらしい。
幸いにして、日本ではまだまだそんな人の不幸で大もうけしようとする人は少ないし、この映画でもその問題については一切触れていないけれど、アメリカでは、ガンの宣告を受けたら、ネットの情報を見ないようにと勧める医師や看護師もいるということだった。


映画としては、特に引き込まれもしなかったが、ガンになったらどうするのかということを、より現実的に感じることが出来て、「俺の場合はそうなったら、一緒に寝てくれる美人の彼女もいないし、かなり寂しい現実が待っていることになるよな」と、現状を振り返る、いい機会にはなった。


振り返ったところで、どうしようもないことを確認して、やれやれって言うだけだけどさ。