僕は体温が低くて36度までない。小さな頃はもっと体温が高かったような気がする。
体温が低いと基礎代謝が減り、太りやすくなるそうだ。
体を温めるショウガや、日本酒などを摂るといいらしいというので、仕事帰りに紹興酒を買って帰ってきた。
助手席の鞄の隣に置いていた。
家の駐車場に着いたとき、雨が降っていたので、運転席側のドアを開け、傘を差した。
それから、助手席側のドアに回って、荷物を取り出そうとした。
ドアにもたれた形に置かれていた、紹興酒の瓶が転がり落ちて、駐車場に落ちて割れた。
「あのなあ」
割れた瓶の破片をレジ袋に放り込む。
風で傘が飛びそうになる。
「もう。まったくなあ」
家に帰って、熱いシャワーを浴びながら、体温なんてもう気にするのをやめようと思った。
23日から26日まで医療救護班の付き添いで、石巻市に行った。
石巻日赤病院で引き継ぎを受け、それから5人の医療救護班で夕食を食べた。
びっくりドンキーってハンバーグ店に行った。
店は混んでいたけれど、普段の生活のとおりだった。
すごいボリュームで「これで帰ったら確実に太る」と思った。
夜は交流センターというところで、寝袋で寝た。22時就寝、5時起床。
山用の軽くて薄い寝袋ではなく、厚くて重い寝袋だったけれど、寝心地はそれほど悪くない。
それよりも、ひとつのホールのようなところでほかの班の人たち数十人もいっしょに寝るので、いびきの音がものすごい。
レインボーのバビロンの城門を練習しているときのオーケストラを聴いているようだ。
ほとんどの人はベースを担当しているらしく、低い音を奏でているのだが、数人、トランペットのような高く大きな音を奏でている人がいて、全体として相当、迫力がある。
僕と同じ班の人は、朝の2時から起床時間の5時まで、いびきでなかなか寝られなかったと嘆いていた。
僕は寝袋に潜って、片耳をまくらに押しつけて寝ていた。それでもすごい音量だった。
9時から12時まで診察、カップラーメンなどを食べて、13時から15時まで診察。
石巻日赤病院で行われる18時の全体ミーティングに出席した後、19時から20時までまた診察。それから夕食を食べたりしていると、宿舎のホールまでかなり距離があるので、それだけで1日が終わってしまう。なにしろ22時消灯だから。
それでも、朝の診察前などに、日和山公園に行ったり、石巻港に行ったりした。
津波と震災でめちゃくちゃにされた街を見てきた。
津波の影響なのか、市街地には目に見えないような小さなホコリや砂粒が舞っているらしい。
患者さんも咳をしている人が多かった。
デジカメも小型のものはレンズ可動部の隙間に砂などが入るらしく、僕のものも、他の人のものもレンズ部分が壊れてしまった。
持って行った一眼レフカメラは、重かったが、タフで大丈夫だった。
患者さんのなかには、両親を亡くした小学生もいた。
俺たちには、そういう人の気持ちまでは理解が遠く及ばない。
よく言われるように、腕をなくした人の気持ちは腕をなくさないと、足をなくした人の気持ちは足をなくさないと本当のところは理解ができないのだと。
それは自覚しているから、簡単に慰めることもできない。
それでも、何かしてあげないと、という気持ちはずっと持っていた。
ようやく、環境になれてきて、全体像が見え始めた頃に撤収になってしまう。
ずっと僕は診察室で受付、今までのカルテ、データの整理などをしていたので、避難所には一歩も足を踏み入れないままに終わってしまった。
具体的に、誰も助けられなかったけれど、今までのカルテを50音順に並べて、付箋を貼って整理をしてきたから、これからの人は、カルテが探しやすくなると思う。
26日の朝2時頃に帰ってきて、少し仮眠をして、8時からの会議に出席した。
ずっと頭痛がしていた。思ったより疲れていたのだと思う。
荷物等をばらして、昼の12時頃に家に着くと、それから6時間くらい寝ていた。
頭痛はだいぶ治まっていた。