剣道を習っていた小学生の頃、稽古の最後に先生からいろいろなお話を聞かされた。
礼儀作法とか呼吸法とか黙想だとかいった話が主だったが、そうでないときもあった。
そのときに聞いた話で心に残っているものがある。
それはこんな話だ。


昔、剣道を習っている少年がいた。
夜、稽古の帰りの山道を一人で歩いていると、いつも一羽の大きな鳥が頭上すれすれのところをかすめて飛ぶのだという。
少年はその鳥が恐ろしく、手に持っていた木刀で打ち落とそうとするのだが、どうやっても当たらない。
毎日、少年は家まで恐怖を感じながら逃げ帰るのだ。


その話を聞いた師匠が「ならば、この木刀をつかえ」と、帰りに違う木刀を渡してくれた。
その日の夜も、鳥がいつものように少年に襲いかかってきた。
少年が師匠から借りた木刀で鳥に斬りつけると、鳥に見事に当たり、殺すことができた。


先生はそこでみんなに聞いた。
「それまで当たらなかったのに、なぜ、師匠から借りた木刀では当たったのかわかるか?」
僕はさっぱり分からなかった。
師匠の木刀には何か特殊な力が備わっていたのではないか、というようなことを思っていた。


そのとき僕が尊敬していた先輩が手を挙げた。
先生が彼を当てると「それは、師匠の木刀が少年の木刀よりも長かったからです」と答えた。
そして、それが正解だった。
そうか、長かったから当たったのか。
すごく感心したし、当てられなくてよかった、とも思った。


こういった複雑な出来事を単純な方法で解決する話は多い。
昔はそんな話が好きでよく読んでいた。
いろいろと読んだ結論は「だから数学という学問があるのだ」ということだった。
それから数学をもっとまじめにやらなかった自分を悔いるのだ。


そして、その逆。
単純な出来事を複雑な話にまで発展させる話も昔からある。
妄想のなせるわざとでも言えばいいのだろうか。
ぎりぎりのレトリックや表現の限界を使って話をつなげていく。
最近、僕の読む話はそんなものが多い。


ずっと読みたかったジュディ・バドニッツの「空中スキップ」(マガジンハウス)を読む。

空中スキップ
この妄想力は次元を超えている。
たとえば短編「アートのレッスン」はこんな話だ。


美術館の一室で人物画のレッスンを受ける。
モデルは醜いまでに太った女で、壇にのぼって全裸でポーズをとっている。
彼女を描くことは重力を描くことなのだと、私たちは思う。
一休みをして、今度は栄養失調なみに細い若い男が壇にのぼり、全裸になってポーズをとる。
私たちは、彼を何枚も描く。
彼からは垢っぽい不潔な匂いがする。
いつの間にか教室からは教師がいなくなっている。
若い男は壇から降り、「今度は俺たちが君たちを描く番だ」という。


アートを志すものはチャレンジ精神がなくてはいけない、と私たちは思う。
私たちは裸になり、互いに裸を見ないように気をつけながら壇にのぼる。
勇気をふりしぼって目を上げると、モデルの男と女はみんなの脱いだ服とバッグを持って逃げだしてしまう。
あとには壇にのぼった裸の一団が残されている。
もしかしたら、教師もぐるだったのだろうか、と思う。
私たちは、ひざを抱えてじっと待っている。
でも、何を待っているのだろうか?


こんな話が、たっぷりとある。
悪趣味な話が多いけど、こういう跳んだ話を女性が書いていることに僕は驚いた。
世の中には(見たことないけど)こんな女性もいるんだと思って少しほっとした。
僕的にはとてもいい本だった。


水曜日には久しぶりに劇団に出席した。
できあがった台本に、役者の人たちが手を入れてくれる。
台本には、ネコ耳をつけて学ランを着た女性が氣志團の「ワン・ナイト・カーニバル」を歌うシーンがあるのだけれど、初めてそのシーンを読んだのにもかかわらず、多くの役者の人たちが「ワン・ナイト・カーニバル」を振り付きで歌えるのを見て驚かされた。


氣志團ベスト
最近、太り気味なので、時間があったら劇団の人達が別の日にしているフット・サルのチームにも入れてもらおうかと思っている。
以前、山形で外国人とフット・サルの試合をして体力の限界以上に走ってしまい、酸素不足になってトイレで七転八倒したことを思い出して、少し腰が引けるんだけど、自分の限界を見極めながら参加したいと思う。


そしてもう少し休んだら、いよいよ社会保険労務士の試験勉強を始める。
「2か月くらいの勉強で受かると思う?」
知り合いの司法書士に聞いてみた。
「私は受けたことないから分からないけれど、それって普通に勉強している人には失礼じゃない?」と言われた。
そうなのかもしれない。


「落ちるかもしれないな」とは思う。
そうしたらそのときにまたいろいろと考えようと思う。
また、試験勉強が始まる。
つらいだろうけど実はかなり楽しみでもある。