台本ができあがった。
といっても、とりあえず最後まで通しただけで、これから役者の人が肉付けをしたり、細かなストーリーに手を入れたりすることになる。
それでも、ラストが見えるのと見えないのでは全然、世界が違う。
ラストが分からなければ、何をめざして肉付けしたらいいのかも分からないからだ。
でも自分自身、正直、こんな結末になるとは思わなかった。
最近、2月に1本のペースで芝居を見に行っているが(直近で観たのは青年劇場の「菜の花ラプソディ」)、作る立場になってから芝居を観ると、テンポとか会話が気になって仕方がない。
休憩時間に「今までの流れ、テンポ遅すぎだろ?」とか「あんな退屈で進歩がない会話で飽きないのか?」と周りにいる人に聞いたりする。
みんな面白いし、気にならないという。どうも自分が思っているよりも、芝居には「無駄な場面」が多くてもいいような気もしてくる。
芝居の本も読むようになった。
最近は日本語を話せる外国人が増えたせいか、外国人の俳優を使うことが多いような感じがする。
「菜の花ラプソディ」もそうだった。
田舎の観客だと「おお。外国人がいる。日本語も上手に話している」と驚くのだろう。
昔ディーンというイギリス人の同僚がいた。
今から考えると彼の日本語能力は卓越していて、仕事上のかなり難しい話を日本語でやり合っていた。
そのディーンとカナダに行ったときに、「ディーンの一番好きな日本語って何?」と聞いたら、彼は「うんこ」だと答えた。
「おまえなあ、今まで日本語ほんとにいっぱい覚えただろ?そのなかで一番好きな日本語が「うんこ」でいいのか?」
「いいじゃん。「うんこ」って言葉。僕、大好きだよ。」
それからも、ディーンは僕にメールを打つときに、うんこ、うんことやたらと書いてきて、腹が立った。
そういう経験をしていると、日本語で芝居ができる外国人俳優がいても「そういうこともあるよな」くらいにしか思わない。
むしろ外国人を特別扱いにする芝居の感覚の方がおかしいような気がしてくる。
週末は実家に帰った。
実家に姉も来たので話をしていたら、家にグラシェラ・スサーナが来て、2曲歌って話をして帰った、と当たり前のような顔をして言った。
「グラシェラ・スサーナって、あのアルゼンチンのグラシェラ・スサーナ?アドロとかの。」
「そう。日本語で歌ってくれたけどすごく声量があってよかった。マイクを通さない歌っていいね。」
「あのなあ。」
中学生の頃、グラシェラ・スサーナのライブアルバムを持っていた。
当時、ライブアルバムというのはどれもバカバカしいような録音で、レコードを聴くたびにうんざりしていたものだが、彼女のものは素晴らしかった。
「昔、ステレオのところにあった俺の買ったLPって、今どこにあるの?」
「私が持ってるよ。押し入れの棚にしまってある。でも少なかったよ。」
「そのなかに、絶対、グラシェラ・スサーナのアルバムあるよ。ロックのアルバムは友達に貸したまま返ってこないのがいっぱいあるけど、彼女のアルバムは人に貸すはずがないから。」
姉が自分の家に帰ったあと探してみたら、見つかったという連絡が来た。
「また彼女に会う機会あるの?」
「たぶん、あると思う。」
「じゃあ、そのアルバムにサインをしてもらって。」
「わかった。昔のアルバムだから、彼女も驚くと思うよ。」
ライブアルバムのジャケットの写真を思い出す。
ギター一本のライブ。彼女が語りかけるように歌っている写真だ。
サン・ディエゴで、当時いろんなところにいたアルゼンチンのバンドを見るたびに、僕はいつも彼女のアルバムを思い出していた。
あのアルバムを聴いていた頃の自分を少しだけ思い出す。
歌っている内容のほとんどは、本当のところ理解できていなかっただろう、と思う。
それでも聴いていた自分に、「なかなかやるなあ」と声をかけてやりたい気分になる。
「パッセンジャー57」というウェズリー・スナイプスのアクション映画をDVDで観た。
テロリストの演技がかなりよく、日本にはこういう強大な悪役ができる俳優って少ないよなあ、と思う。
ストーリーは、「エア・フォース・ワン」や「エグゼクティブ・デシジョン」のカントリー版といったところ。
善し悪しをいう映画ではなく、アクション映画なので、まあ好きな人にはいいんじゃない?って感じだった。
ようやく、英検の勉強を始めた。すでに遅すぎの感は否めないけれど。
でもこれから頑張りたいと思う。