昔、何かの小説で、アリはみんなで食物を運ぶとき、自分の後ろ足方向に引っ張っているだけで「協力」しているわけではなく、巣穴の方向に運ばれるのも、単に力の「合成」のなせるワザなのだ、という話を読んだことがある。
つまり、巣穴の反対方向にいるアリは、単に邪魔しているだけなのだ、と。
アリについては、実はアリは同じく社会的昆虫であるハチから進化したものだと、これも何かの本で読んだ。
空を飛べる方が地面に穴を掘るよりも進化形だと思うのだが、敵の数や風雨といった災害を考えると、アリの方がいい選択をしているのかもしれない。
そんなことを思い出したのは、金曜日の3次会で「アリよさらば」を歌った後、なぜかその場が静かになってしまったからだ。
サラリーマンなんて、ちっぽけな角砂糖を並んで運んでいるアリみたいなもんだ。
なぜ生きているんだ?行き先もわからないままに死ぬんだろう。
俺はごめんだぜ。
そんな趣旨の歌なので、「もっとサラリーマン賛歌みたいな歌にしておけばよかった。」と翌日シャワーを浴びながら少し後悔をした。
絲山秋子の「沖で待つ」(文藝春秋)を読む。
いつものことだが、彼女の描く女性は、僕にとって職場の同僚としての理想像であることが多い。
仕事ができ、正義感と責任感が強く、ふしだらで、けんかっ早い。暴言を吐く。
こういう女性とはきっと友情を感じることができるのだろうと思う。
問題が生じたときに、人の後ろへ回る女性は、恋人としてはいいかもしれないけれど、職場では物足りない。
前へ行って啖呵を切ってくれるような女性の方が、「おまえ、なかなかやるじゃん」と応援したくなる。
「沖で待つ」もいいが、一緒に収録されている短編「勤労感謝の日」もスカッとしていて気持ちがいい。
これだけ絵に描いたようなダメ男やダメ上司が未だにいるのか少し疑問だけど。
読み終わったら、「アリよさらば」を歌ったことを後悔していた自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。
今度はストーンズの「黒くぬれ」でも歌ってやろうと思った。
仕事に行ったら、隣の席の同僚も来ていた。
金曜日の夜キャバクラに行ったときにもらった名刺を奥さんに見つかって、とてもやばい状態だという。
もう、ご飯を作ってくれないかもしれない、という。
「でも、キャバクラだよ。ピンサロに行ったわけじゃないんだから。」
「どうも、その辺がごっちゃになっているらしくて。」
田舎のキャバクラなので、年配の女性も多く実体はスナックとほとんど変わらない。
「俺の名前使っていいから。俺が無理矢理誘ったことにしといてよ。」
「名刺の後ろに、なんか書いてあって、あれがいけなかったらしいんだよ。あれって何が書いてあったんだっけ?」
「最近太ってきちゃったんで、楽しいおしゃべりしているうちに痩せたらいいなあ。とかなんだか虫のいいことが書いてあったけどねえ。」
「そっかあ。でも捨てておけばよかった。」
「何も悪いことしてないんだから、堂々としてればいいよ。小指の先だって握ったわけじゃないだろう?」
「それはそうなんだけど。」
そう彼はいつまでも悩んでいるのだった。
仕事帰りに温泉に寄って帰る。
露天風呂に入って空を見上げていると、黒い夜空に地上の光を反射した大きな白い積雲がゆっくりと流れていく。
秋に同じように空を見上げたときは、スジ状の層雲が見えていたのだ。
ああ、春が来たんだなあ、と思った。