おはようございます、麻雀牌の一索を「磯子」と呼んでいるミドルです。デザインも一索だけ孔雀等の鳥がモチーフになっており何だか不思議な牌ですね。
清原氏は知りませんが落合さんは麻雀も強いんですよ(^^)
・落合は巨人に残留するつもりだった
「西武と決裂したら、ウチは何が何でも清原を獲るべきだね。オレだってそう長くはないし、では後の四番を考えたら清原しかいない。ここ何年間か打てないけど、オレから見ると原因がはっきりしている。それを直すのは、そんなに難しいことではない。オレはキヨを本来の姿にする自信がある」(週刊ベースボール1996年12月23日号)
西武の清原がFA宣言した6日後の1996年11月2日、落合は10年来の師弟関係にある清原について、自分の手で再生してみせると口にした。落合自身は、翌年もチームに残留することをシーズン中に読売新聞社の渡邉社長や長嶋監督とのやり取りで確認しており、本人も当然そのつもりでいた。
西武の清原がFA宣言した6日後の1996年11月2日、
12月9日で43歳になる落合の1996年シーズンは、8月末に死球による左手小指中手骨の亀裂骨折で離脱するまで、打率・301、21本塁打、86打点、得点圏打率.345という堂々たる打撃成績を残し、長嶋巨人の“メークドラマ”に大きく貢献した。対する29歳の清原は西武11年目で、31本塁打を放ち、自身4年ぶりの30発をクリアするも、得点圏打率.248とここ一番での勝負弱さを度々指摘される。その課題も、「オレがいつも近いところで見ていれば、いろんなことをアドバイスできるだろう」と落合は考えていたのだ。
「娘を嫁にやる父親の気持ちだったよ」
そして、周囲も「巨人・清原」の誕生に向けて交渉解禁前にもかかわらず、フライング気味に後押しする。日本テレビ社長の氏家斉一郎は、ミスターレオの去就について、FA宣言の翌日に獲得容認とも受け取れるコメントを残した。
「当人の意志を無視してはいけない。親の都合で子供の結婚を認めないというのはまずい。嫁に来たがっている者を親が反対できないだろう」(週刊文春1996年11月7日号)
「娘を嫁にやる父親の気持ちだったよ」
そして、周囲も「巨人・清原」
「当人の意志を無視してはいけない。
すでに巨人入団は決定的という雰囲気の中で、プロ野球コンベンションと日米野球レセプションが行われた10月31日、清原は西武関係者と交渉を行い、「外で勝負したい。ドラフトのクジで人生を決められ、自分なりに精いっぱいやってきた。今度は自分が決めた道で勝負したい」とついに他球団移籍の決断を伝える。兄貴分の東尾修監督も、「彼にとっては巨人がやっぱり初恋や夢のようなものなんだ」と理解を示した。
若いミュージシャンが、『いつかは武道館でコンサートをしたい』というような夢を語ることがある。僕がジャイアンツで野球をやりたいという夢は、つまりその武道館コンサートにも似たものだった。ジャイアンツの選手として活躍すること。それがジャイアンツの試合をテレビで観ながら、祖父に『日本一の男になれ』と言われて育った僕の夢だった」(男道/清原和博/幻冬舎)
黄金時代の西武で四番を張り、11年間で8度のリーグ優勝と6度の日本一に輝いたが、FA権を取得すると、一度は蓋をした少年時代の夢が蘇ってきた。背番号3は11月4日に西武球場で行われた日米野球第4戦に出場。スタンドでは「いつまでも西武の清原でいてくれ」「永遠のミスターライオンズ清原和博」といったファンの横断幕が掲げられたが、試合後に本人は「西武のユニフォームを着てここでやるのは最後になるでしょう」とあらためて移籍の意思を口にする。11月10日に日米野球の全日程が終了した翌11日、清原は入団時から何かと自分を気にかけてくれた西武の堤義明オーナーのもとを訪れ、退団の挨拶。堤オーナーはのちに「娘を嫁にやる父親のような気持ちだったよ」とミスターレオを失った喪失感を振り返っている。
黄金時代の西武で四番を張り、
「ドラフトのことを謝ってもらえませんか?」
ライオンズブルーに別れを告げ、11月12日に他球団との交渉が解禁となると、13日にはさっそく都内のホテルで巨人との初交渉に臨む清原。すべてはトントン拍子に進み、この日には入団合意するのではという見方もあったが、事態はここから意外な展開を見せる。
「当時の球団代表は約束の部屋で会うなり、チーム内の年俸での序列などを話して『この条件しか出せない』と言ってきました。なぜ僕が欲しいかとかそういうことではなく、来るなら来れば、という感じを受けたんです。だから、まず『僕の中では11年前のことが整理できていないんです。ドラフトのことを謝ってもらえませんか』と言いました。そうしたら、その人は僕の言葉を聞いて笑ったんです。そんなこともあったねえって、ドライな感じの笑いでした。結局、謝罪のないまま『君が来るなら落合を切るんだ』とか他の選手のことを話し始めた」(告白/清原和博/文藝春秋)
ライオンズブルーに別れを告げ、
「当時の球団代表は約束の部屋で会うなり、
交渉時間に遅刻してきた巨人の深谷尚徳球団代表、鯉渕昇同代表補佐は「ウチに入りたいなら、入れてやるよ」という態度で、旧年俸2億4000万円から上限いっぱいの3億4500万円ではなく、年俸3億円の2年契約を提示。さらに一塁を空けて待つという意味で良かれと思って口にした「落合のリストラ」も、清原に「いつか自分もその切られる側になるのではないか」と不信感を抱かせてしまう。実は巨人が清原と交渉する前日の12日夜、深谷代表は「(長嶋)監督が必要だと思っても、経営の問題があるし簡単にはいかない。全体をみていかないと。リストラとはそういうものでしょう」と落合切りを遠回しに予告していた。すかさず13日朝、スポーツニッポンが「落合退団」をトップで報じ、翌14日は日刊スポーツも「落合解雇」の一面で続き、各メディアがオレ流の肉声を取ろうと本人のもとに殺到する。
落合の怒り「失礼な話だよ」
落合はもともと1996年1月末の人事で送り込まれた深谷球団代表、鯉渕同代表補佐、その前年にアマ球界から招へいした石山建一編成部長ら現体制の動きに不信感を抱いていた。渡邉社長や長嶋監督の意向とは関係なく、フロント陣は本気で自分を追い出そうとしている。清原の交渉過程で、その情報が公になると、オレ流は頭を下げて残留を請うでもなく、そのまま黙って引き下がるような男でもなかった。伊豆の吉奈温泉で巨人のベテラン・中堅組とオーバーホールを行っていた落合は、14日夕方、自宅に戻ると集まった報道陣に向かって怒りをぶちまけるのだ。
「あいつ(清原)は12月31日までに返事をすればいいんだろ。どっちにしても清原待ちか……。そこまで待たせるのは失礼な話だよ。オレがいらないなら10月の時点でクビを切ればいいんだ」(週刊ベースボール1996年12月2日号)
落合はもともと1996年1月末の人事で送り込まれた深谷球団代
「あいつ(清原)は12月31日までに返事をすればいいんだろ。
追い込まれた落合博満が、巨人軍に対して反撃に出たのである。
落合博満がキレた「失礼な話だ」
「フロントの発言を知って、特別に大きな驚きとかショックというのはなかった。ついにきたか、という感じ。こいつら、馬鹿だな、何の権限があってやっているのかなって。でも、俺はすぐに腹をくくったんだよ。いくら渡邉社長と長嶋監督が俺を必要としてくれていても、契約交渉の当事者であるフロントがそこまで俺を外したいと思っていて、こういうふうに問題が表面化したからには、もうジャイアンツと契約することはないだろうと」(不敗人生43歳からの挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)
実際、落合はオーバーホール中の吉奈温泉で巨人の同僚選手たちに「今まで世話になったな」と別れの挨拶をしていたという。だが、14日夕方に報道陣に向かってぶちまけたオレ流の「失礼な話だ」という怒りのコメントに、巨人フロント陣は焦る。緊急会議の末、同日深夜、午後10時45分に紀尾井町のホテルニューオータニの玄関脇で、深谷代表が「契約は“白紙”と言ったが、“解雇”とは言ってない」と苦しい弁明とともに「落合残留」を発表した。
「阪神はタテジマをヨコジマに変えてでも…」
「フロントの発言を知って、
実際、
「阪神はタテジマをヨコジマに変えてでも…」
それを受け、午後10時55分に再び都内の自宅前で、「残留と言われても、条件も知らされていない。これで契約更改の場につけるということがわかった。一度はクビだったんでしょ」と語るオレ流。騒動は沈静化すると思われたが、打撃コーチ兼任の年俸4億500万円の現状維持での残留案が報じられるも、「飼い殺しにされるのはご免だ」と怒りはおさまらなかった。この混乱の渦中、11月15日には清原が阪神との初交渉を迎える。2年連続の最下位に沈むチームを改革するために、どうしても柱になるスター選手が欲しかった吉田義男監督は、交渉解禁日の朝に清原の自宅へ電話を入れていた。のちに明らかになるが、このときの阪神は総額30億円超えの10年契約に加え、将来の監督就任を含めた終身雇用という前代未聞の大型契約を提示したのである。巨人とは比べ物にならない熱量と好条件に、交渉後の清原の表情も明るかった。
「吉田監督から“阪神はタテジマのユニフォームをヨコジマに変えるくらいの気持ちだ”と言っていただいて……。部屋が暑かったせいもありますけど、十分すぎる熱意で汗が出てくるような状態でした」(週刊ベースボール1996年12月2日号)
落合「(清原は)阪神に行っちゃうぞ」
これには落合も、「(清原は)このままだったら阪神に行っちゃうぞ。でも結局、あいつは巨人に縁がないんじゃないかな」と意味深な発言。フロント陣に対しては「今回の問題は責任問題につながるんじゃないの。球団のだれかのクビが飛ぶだろう」と斬り捨てた。15日夜から家族と静岡県の川根町に温泉旅行へ出かけた落合だったが、川根町のペンションには多くの記者が同行して、連日そのコメントが紙面を賑わせ続ける。
「(FAで)来るときはさんざんいいことを言っておいて、手のひらを返したようになるんだから。おかしなもんだよな。最初はクビで次は残留だからな。バカにされたもんだ!」(日刊スポーツ1996年11月17日付)
複数年契約の要求が受け入れられない場合は他球団への移籍を示唆。長嶋監督と会うことも「言い訳は聞きたくない」と拒否をする。さすがに複数年要求には深谷代表も「常識で分かるでしょう」と不快感を露わに。当時の川根町は携帯電話の電波が届かない地域で、スポーツ紙を介しての舌戦が続いた。だが、このままでは本当に落合も清原も逃すことになる。焦った巨人側は、長嶋監督が清原に永久欠番の「背番号3」の禅譲を明言。11月20日の2度目の交渉では、自ら出馬し「思い切って僕の胸に飛び込んできてほしい」と清原を口説き、3年契約で上限いっぱいの年俸3億4500万円を再提示する。後日、11年前のドラフトの件も、渡邉オーナーが「お父さんお母さんにまで悲しい思いをさせて申し訳なかった」と清原の両親も交えて謝罪したという。
ナベツネの反撃「落合はおしゃべりが過ぎた」
これには落合も、「(清原は)
「(FAで)来るときはさんざんいいことを言っておいて、
複数年契約の要求が受け入れられない場合は他球団への移籍を示唆
ナベツネの反撃「落合はおしゃべりが過ぎた」
「選手は『商品』だ。契約に応じ動かされるのは当たり前。といっても、この商品には感情があり、誇りがある」(朝日新聞1996年11月20日付)
朝日新聞の「天声人語」でもこの騒動が取り上げられるほど世間の関心も高まる中、東京に戻った落合は、23日のファン感謝デーの紅白戦で先発投手としてマウンドへ上がると、楽しそうに1イニングを無失点で投げ切り、球団納会にも出席する。なお、当日の「スポーツ報知」一面は、「落合『巨人に残る』」。電話取材に応じ、打撃コーチ兼任案にも「キヨだってバッティングでオレに聞きたいことがあるんじゃないの? そうなったら確かに肩書があったほうがいいかもしれないな」と前向きなコメントを残している。
その日の午後3時5分、鯉渕代表補佐の携帯電話に、清原から「阪神さんにお断りの連絡をしました。巨人さんにお世話になります」と直接連絡が入った。そして、翌日の11月24日午後4時、ホテルニューオータニの「鶴の間」で清原の巨人入団会見が行われるのである。一時は阪神の熱意に心が傾きかけるが、大阪の実家で母親から「あんたの夢はどこに行ったん?」と背中を押され、子どもの頃からの夢を追いかけることを決断した。緊張した面持ちで「命がけでやります」と決意表明する29歳の清原。もしも、このとき阪神を選んでいたら、いや師匠の落合と巨人で同僚となり多くの時間を共有して、さまざまなアドバイスをもらえていたら、男たちのその後の運命は大きく変わっていただろう。その清原入団会見の当日、主役を社長室に招き入れて花束を贈呈したのが読売新聞社の渡邉社長だった。翌25日、東京・両国の国技館で開かれた横綱審議委員会に出席した渡邉は一連の落合騒動について、ついに怒りをぶちまける。
朝日新聞の「天声人語」
その日の午後3時5分、鯉渕代表補佐の携帯電話に、清原から「
「(落合は)おしゃべりが過ぎたな。おれは(実母の)通夜の最中に(落合の自宅に)『連絡をくれ』と(留守番電話に)連絡先まで伝えたんだ。それが今日に至るまで連絡もない。これは礼儀正しい態度じゃないだろう。清原を利用するような発言はいかん。若い青年をダシにしちゃいかん。フロントのクビが飛ぶとか余計なお世話。おれが決めること。あれだけしゃべって本人がどう始末をつけるか。取り消してもらわないとな」(日刊スポーツ1996年11月26日付)
「長嶋さんは知っていたんですか?」
来季の契約については、「打撃コーチ兼任を本人がイヤと言ったら仕方ない」と突き放し、この“ナベツネ爆弾”を11月26日朝、各紙が一面で「落合発言『許さん』渡辺社長激怒」(スポーツ報知)、「渡辺社長キレた!!『勝手にしろ』落合出てって結構」(日刊スポーツ)と派手に報じた。
これまでOBたちの批判にさらされるオレ流をことあるごとに擁護してきた渡邉も、組織のトップとして、ひとりの選手にフロント幹部を無能と言われたからには黙っているわけにはいかなかったのだろう。落合にも渡邉にもそれぞれ守るべきメンツがあった。結局、落合問題の最終判断は長嶋監督に委ねられる形となり、11月26日と27日に都内のホテルで、極秘の直接会談が行われる。
「長嶋さんは知っていたんですか?」
来季の契約については、「
これまでOBたちの批判にさらされるオレ流をことあるごとに擁護
27日には長嶋邸から囮のベンツを走らせ、マスコミ各社約20台のハイヤーをそちらに誘導させる徹底ぶりだった。
「会談の中身については詳しくは言えないけど、まず、俺の方から今回の経緯や俺が知っているフロントの動きについて話した。で、こういうことを知っていたんですかって聞いた。俺が知りたかったのはそこだからね。そうしたら、長嶋監督は知らなかった。『長嶋監督もフロントとグルだった』と言う人もいるけど、あの時の長嶋さんの反応からすると、それは違うと思ったよ、俺は」(不敗人生43歳からの挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)
「会談の中身については詳しくは言えないけど、まず、
だが、長嶋監督から「残ってくれ」という言葉はなく、遠回しだが言いにくそうに「来年は控え」ということを伝えてきたという。落合は自ら身を引くことを決め、他球団が獲得しやすい自由契約にしてほしいと頼み、長嶋監督もそれを了承する。最後はホテルの部屋で男ふたり、寿司をつまんで別れた。
落合とナベツネの和解
長嶋監督との極秘会談から一夜明けた11月28日の夕方。落合は信子夫人を伴い、東京・大手町の読売新聞本社を訪れ、渡邉社長と会談へ。「本人を立てて、私が悪妻と言われてフォローしている。これが、“私流”なのよ」(週刊宝石1996年12月26日号)とオレ流の無名時代から二人三脚でともに戦ってきた夫人は、渡邉に直接、一連の騒動の真相を確認して謝罪を受けた。
落合も「君はまだ43歳。ふつうの会社で言えば、まだ部長にもなれない年齢なので、新しいところへ行って野球人生を全うしてください」と70歳の社長から激励され握手を交わし、特別功労金として2000万円が贈呈されることも決まった。そして、帰り際に信子夫人は渡邉から花束を受け取り、手打ちとなる。直後にフロント陣も落合に「本当にすまなかった」と頭を下げたという。
長嶋監督との極秘会談から一夜明けた11月28日の夕方。
落合も「君はまだ43歳。ふつうの会社で言えば、
異例の退団会見「清原君に負ける気はしない」
同日の夜8時、ホテルニューオータニの「鶴の間」には、深谷球団代表だけでなく、清原の入団会見と差をつけないよう同じスーツとネクタイを身につけた長嶋監督の姿もあった。金屏風の前で、自由契約の選手と並び、監督と代表が同席する異例の退団会見である。
「(長嶋)監督は小さいころからの憧れだった。自分が野球を始めたころ、監督は光り輝いていた。ただ(来季は)どうしても清原との競争になる。(自分が)ベンチに座る機会も多くなるだろうし……。その監督の苦労する顔、私と清原君の問題でこれ以上、悩む顔は見たくない。身を引こうと思ったんです。ただし、清原君にはまだ負ける気はしない。だからよそ(他球団)へいってやらせて頂きます」(週刊ベースボール1996年12月16日号)
落合が怒った“本当の理由”
伏し目がちで沈んだ表情の長嶋監督とは対照的に、チームを去る四番打者はときに笑みすら浮かべて心境を語り、「巨人の落合」として最後の仕事をやり切った。同僚の村田真一は、「寂しい。何でやろ、という感じ。伊豆で一緒にオーバーホールをしたベテラン組は(来年も巨人で、と)エールを送っていたのに……」とオレ流との別れを惜しんだ。ようやく2週間以上にわたる退団騒動にピリオドが打たれたわけだが、あらためて経緯を追うと、妙な違和感がある。なぜ、普段は冷静なオレ流があそこまで感情的になったのか? フロントの不手際に腹が立ったという面はあったにせよ、らしくない。「野球を仕事として考えることが、プロ。プロ野球といえばかっこいいけれど、俺にとっては仕事、職業野球なんだよ。仕事だから野球をする」と常々公言してきた、落合らしくないのだ。
落合が怒った“本当の理由”
伏し目がちで沈んだ表情の長嶋監督とは対照的に、
日本人選手で初の年俸1億円を突破、年俸調停もトレードもFA移籍も経験し、契約社会でとことんビジネスに徹したオレ流らしからぬ球団フロントとの泥仕合。それも、すべては「長嶋茂雄のため」と考えたら辻褄が合う。なぜなら、自分が野球を始めた頃のヒーローでもある長嶋監督のもとで四番を打つというのは、落合にとって己の野球人生の集大成でもあったからだ。
「本当のことを言うと、オレは現役最後の何年間かはなにがなんでも長嶋さんのもとでやりたかったんだ。FAを宣言したときも、記者には『巨人よりもいい条件の球団があったら、ビジネスとしてそちらを優先したい』と言ったけど、それは本心ではなかったんだ。とにかく憧れの長嶋さんのチームに入れたんだから、監督を男にするために自分が打つだけでなく、ゲームメーカーでもなんでもやる。自分としてはただのイチプレーヤーとして巨人に行くつもりはない。巨人に貢献したいし、若い連中にも自分のいいものを残したい。本当の意味で骨を埋める覚悟でいる。また、長嶋さんの胸のなかに飛び込んで、現役最後の人生を悔いなく送りたい。信子の父親が亡くなる前に『博満、いつか巨人で働くんだぞ』と言った言葉がまだ耳にこびりついている。オレは長嶋さんが“もう、いい”と言うまでついていくつもりでいる」(わが友 長嶋茂雄/深澤弘/徳間書店)
“最後は巨人軍に裏切られた”
清原が巨人に夢を見たように、落合もまた心の底から長嶋茂雄に憧れていたのだ。だから、OB連中にどれだけ批判されようが、背番号33を胴上げするのが自分の使命だと巨人移籍を選択した。
“最後は巨人軍に裏切られた”
清原が巨人に夢を見たように、
試合中に負傷した太ももをテーピングで何重にも巻いて、文字通り這ってでもグラウンドに出ようとした10・8決戦。亀裂骨折した小指が完治していなくとも、選手生命を懸けてバットを振り無理に間に合わせた日本シリーズ。それはオレ流の20年間の現役生活の中でも、三冠王の目標には見向きもせずチームを勝たせることにすべてを懸けた異質の3年間だった。だが、清原を獲るから、もうおまえはいらないという。これで感情的になるなという方が無理な話だ。稀代のバットマンが3年間全力で尽くして、2度のリーグ優勝と長嶋監督初の日本一をもたらしながら、最後は巨人軍に裏切られたのだ――。
しかし、屈辱にまみれた落合はそこで悲劇の主人公を演じて同情を引くことも、球団フロントと刺し違えて、現役を引退することもしなかった。1997年シーズンに向けてヤクルトと日本ハムが獲得の意思を表明しており、契約してくれる球団がある限り、そこでプレーするという己の信念に従ったのだ。無情にも長嶋茂雄のもとで野球人生を終えるという夢は散ったが、オレ流を貫き通したのである。退団会見で涙を流したと書かれたら、「鼻をかいただけ」と否定する。そして、言うのだ。「オレは、巨人に勝ったのさ」と。
しかし、
「だから、オレの勝ちだよ」
「記者会見の時は俺、醒めていた。もう完璧に醒めていた。やめるんだもの。でも、野球をやめるわけじゃない、巨人をやめるだけなんだ。解雇じゃない、退団なんだ。球団からクビを切られたわけじゃない、自分からやめたんだ。だから、俺の勝ちだよ」(不敗人生43歳からの挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)
「記者会見の時は俺、醒めていた。もう完璧に醒めていた。
いわば、落合は土壇場で「巨人」ではなく、「野球」を取ったのだ。それは94年オフにFAで中日入りの話が出ても、読売本社から「巨人の原で終わってくれ」と懇請され残留を決断した原辰徳とは対照的な人生観だった。現在も巨人にFA移籍してきた多くの選手が、引退後も指導者として雇用されている。もちろんそういう生き方が悪いわけではない。だが、落合はそれをよしとしなかった。退団時に渡邉社長から「また読売グループとお付き合いを願おうと話した」と将来のコーチ手形を提示されるも、再び巨人のユニフォームを着るのではなく、のちに中日の監督として巨人と戦う道を選ぶのだ。
94年から96年にかけて、巨人で352試合に出場。スタメンの四番としては331試合を数える。在籍3シーズンの通算打撃成績は、1222打数362安打の打率.296、53本塁打、219打点だった。
果たして、オレ流は勝ったのか、負けたのか――。栄光と混乱と狂熱をもたらした、巨人軍と落合博満の3年間は、こうして終わりを告げたのである。
果たして、オレ流は勝ったのか、負けたのか――。
時系列
清原
10月末 FA権取得
11月13日 巨人と初交渉
11月14日 深谷代表が「落合残留」を発表
11月15日 阪神と初交渉、吉田監督「タテジマのユニフォームをヨコジマにしても」
11月20日 巨人と2度目の交渉、長嶋監督「僕の胸に飛び込んでこい」
11月23日 「阪神サイドへ断りの連絡を入れた」と巨人・鯉渕代表補佐に電話
11月24日 長嶋監督同席のもと入団会見
落合
11月23日 ファン感謝デーで1イニング無失点
11月26日・27日 長嶋監督とホテルで密談
11月28日夕方 読売本社で渡辺社長と会談し和解
11月28日夜 ホテルニューオータニの「鶴の間」で長嶋監督同席のもと退団会見
12月3日 ヤクルトと初交渉
12月4日 日本ハムと初交渉
12月9日 ヤクルト側に断りの連絡を入れ日本ハムとの2度目の交渉で入団決意
12月12日 落合、日本ハム入団発表