おはようございます。阪神オリックス両軍の皆様、昨日はパレードのはしごお疲れ様でした。
 
さてさて、本日はリー兄弟について述べてみようと思います。
 
レロン・リー(Leron Lee [ˈliːrɔn liː], 1948年3月4日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ベーカーズフィールド出身の元プロ野球選手(外野手)。同時期に活躍したレオン・リーは実弟。甥(レオンの息子)はプロ野球選手のデレク・リー。
 
経歴
グラントユニオン高校を経て、1966年にMLBのセントルイス・カージナルスと契約。1969年にMLB初昇格。打撃は平凡、守備もあまり上手くないとあって出番は少なく、サンディエゴ・パドレス、クリーブランド・インディアンス、ロサンゼルス・ドジャースとチームを転々とする。MLB時代の自己最高は、パドレスに在籍していた1972年の打率.300、本塁打12本、打点47。同年の7月4日、敵地シェイ・スタジアムで行われたニューヨーク・メッツ戦(ダブルヘッダー第1試合)では、3番・左翼手として出場し、9回1死まで無安打を続けてきたメッツのトム・シーバーから中前打を放ち、シーバーのノーヒットノーランを阻止している。なお同試合には、のちに日本ハムと大洋でプレーするゲーリー・ジェスタッド(登録名はそれぞれ「ジェスター」と「ゲーリー」)がパドレスの代打、のち中日でプレーするウェイン・ギャレットがメッツの3番・二塁手として出場していた[1]。
 
日本に活躍の場を求め、1977年にロッテオリオンズに入団(以前ロッテに在籍していたジム・ラフィーバーの仲介による)。来日直後のキャンプでは評論家やマスコミに「パワーがなく、期待できない」と酷評されたが、1年目から活躍し、本塁打王と打点王の二冠に輝く[2]。「1年目のシーズン前に、巨人とのオープン戦がありました。金田(正一)監督とジャイアンツの長嶋(茂雄)監督は元チームメイトだったので、会話していて。2人が私と王さんをつなげてくれたんです。そこで同じ左バッターの王さんからアドバイスをいただきました。王さんが言うには打撃のポイントは右手にあると。『バットを振るときに下の右手から動かすイメージを持つといい』とおっしゃったんです。驚きました。それまでスイングを始動するのは、力を出しやすい上の利き手(左手)だと思っていましたから。でも王さんによれば、『下の右手を意識すれば力みがなくなってファウルボールが減る。その結果、ホームランが増える』と。さっそく実践してみたら、引っ張ったボールがファウルにならなくなった。以来、右手を鍛えるために、食事や書くときなど、日常生活で右手を使うことを心がけました。1年目の本塁打王を獲得できたのは、間違いなく王さんのお陰です」と述べている[3]。
 
1978年には弟のレオン・リーを呼び(1982年までロッテ在籍)、有藤道世、落合博満(1979年新入団)らと強力クリーンアップを形成。この際、背ネーム表記をフルネームである「LERON LEE」に変更する。
 
1980年には首位打者を獲得するなど、その後もロッテの主軸打者として安定した活躍を続けた。ところが1986年オフに現役を引退し監督に就任した有藤は、リーの妻である美樹・リーの著書によると「リーを使わない」「(有藤と)仲の悪い落合の放出」の2つを監督就任の条件に挙げたという[4]。このことや自身の加齢も重なり1987年はロッテ在籍中最低の成績で終わり、同シーズン限りで退団・帰国。リーは指導者、あるいは解説者として日本に残ることを希望したが、どこからも誘いがなかったという。40歳目前のリーを解雇したロッテは、新助っ人として37歳のビル・マドロックを獲得したが、期待したほど成績を残せなかったため1年で解雇している[5]。
 
2013年にパ・リーグの企画「レジェンド・シリーズ2013」のため来日[6]。8月31日の千葉ロッテマリーンズ対北海道日本ハムファイターズ戦の始球式に打者として登場した。ロッテ打撃コーチの堀幸一(リー退団と入れ替わりにロッテ新入団。1991年 - 2010年はリーと同じく背番号5を着用)が投手となり、結果はピッチャーフライだった[7][8][9]。
 
選手としての特徴
生涯打率(4000打数以上)では、日本プロ野球歴代1位(2021年シーズン終了時点)の.320を記録している[10]。NPBに11シーズン在籍した中で、規定打席到達のうえ3割を超える打率を残した回数は9回。1982年にも規定打席不足ながら.326の打率を残しており、これを含めるとすれば、3割を切ったのは退団した1987年のみである。通算安打1579本は2008年にタフィ・ローズに抜かれるまで、外国人選手として21年間歴代最多を誇った。
 
現役時代はサイドスロー左腕の永射保投手(クラウン・西武)が苦手で、打率.153に抑え込まれ、苦肉の策として右打席に立ったこともある[11][12]。
 
人物
ロッテ時代のユニフォーム背ネームは、レオン加入前の入団1年目から「LERON.LEE」だった。
 
私生活では1983年に自動車会社の通訳をしていた日本人女性(先述)と結婚した。
 
現在はアトランタ・ブレーブスのスカウトを担当している[13]。
 
 
 
レオン・リー(Leon Lee([ˈliːɔn liː])、1952年12月4日 - )は、アメリカ合衆国 カリフォルニア州ベーカーズフィールド出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。
日本でも「レオン」の登録名でロッテオリオンズ、横浜大洋ホエールズ、ヤクルトスワローズに在籍。また、オリックス・ブルーウェーブの監督も務めた。
同時期に活躍したレロン・リーは実兄。息子はプロ野球選手のデレク・リー。
 
経歴
現役時代
グラントユニオン高校を経て、1971年にMLBのセントルイス・カージナルスと契約。打撃センスのある捕手であったが、足が遅いためMLBに上がれず苦悩していたその折、ロッテオリオンズに入団し活躍していた兄のレロン・リー(以下レロン)に誘われ、1978年からロッテでプレー。背ネームは「LEON」となる。レロンと甲乙付け難い打棒を振るい、中軸を成した[1]。同年は兄レロンに1厘及ばなかったが打率.316はリーグ5位、翌1979年も、8月12日に球団史上最多の1試合14塁打を記録するなど[2][3]、白仁天に次ぎチーム2位、リーグ4位の.333を記録する。1980年には、兄レロンが.358で首位打者を獲得、レオンは兄に次ぐリーグ2位の.340と、チャーリー・マニエル(近鉄)に次ぐ118打点を挙げ、チームの前期優勝に貢献した。
 
1982年オフに斉藤巧との交換トレードで横浜大洋ホエールズへ移籍。舞台をセ・リーグへ移しても強打は相変わらずだったが、1985年オフに突如自由契約となる。「チャンスに弱い」という理由だったが、同年の成績は打率.303、本塁打31本、打点110を記録していた[4]。8月10日対広島戦では津田恒美、北別府学、白武佳久から1試合3本塁打10打点を記録した[5]。結局、ヤクルトスワローズに移籍し、1987年限りで退団。
 
実働10年で帰国するまで、終始安定した成績を残した。打撃3部門のいずれかで好成績を残した年には他の選手が突出した成績を残すという不運もあり、タイトルには縁がなかった。通算打率.308は、首位打者を獲得していない選手の中では史上最高である。また、移籍を重ねたものの、その先々で活躍して期待に応えた稀有な選手でもある。1980年にロッテで41本塁打、1983年に大洋で31本塁打、1986年にヤクルトで34本塁打を記録した。NPB史上で3球団で30本塁打以上を記録した数少ない選手の一人である。
 
1980年9月30日、川崎球場の対日本ハムファイターズ戦で、空振りしたバットが観客席に飛び込み、小学生の口に当たって歯を折損させたことがある[6]。
 
引退後
引退後はしばらく日米に広がる人脈を生かして野球コンサルタント、1998年にシカゴ・カブスの極東スカウトになる[7]。2003年にオリックス・ブルーウェーブの打撃コーチとして、16年ぶりに日本球界に復帰。同年4月に監督の石毛宏典が解任されると、後任の監督に就任。それに伴い、前監督の「守備力重視」から「打撃力重視」にチームスタイルを変更したため、チームの打撃陣は好調だった(チーム打率リーグ2位、本塁打同3位。ただし得点は同5位)。しかし、ディフェンス面をあまりに軽視しすぎた結果、守備陣は機能不全に(チーム失策数132)陥り、投手陣も次々とプロ野球ワースト新記録(チーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819など)を乱発するほどの投壊状態となった。結局、前身の阪急時代を含めて球団史上最低勝率を更新(ちなみに前年・2002年の勝率.365が球団史上最低だった)、最下位に沈んだ。当時オリックスに在籍した山﨑武司は「僕にとってオリックスでの一番の収穫は彼との出会いといっても過言ではない。そう思えるほどレオンは僕にとって重要な存在でした。日本でプレーしただけあって日本人の気持ちを理解してくれる。何とかこの人のために結果を残したい」、アメリカに帰国後もレオンは山﨑を激励し、「野球を諦めかけていた自分がもう一度奮い立つことができた背景にはレオンの親心もあった」と著書に記している[8]。同年10月7日の対大阪近鉄バファローズ28回戦(Yahoo! BBスタジアム)終了後、小泉隆司球団社長から監督解任を通告された一方、伊原春樹新監督のもとでの一軍打撃コーチ就任を要請される[9]。レオンは当初、球団側が自分への解任通告前に伊原に監督就任を要請していたことに不信感を顕にしたものの[10]、19日には球団の要請を受諾することを表明[11][12]。しかし、帰国中にシアトル・マリナーズなどMLBの6球団からコーチとしてオファーを受けたことや[13]、再来日後に球団側が肩書を一・二軍巡回打撃コーチに変更していたことに不信感を覚えたことなどから、いったんは契約更改を保留した[10]。最終的には熟考の末、11月5日に球団側の要請に応えて巡回打撃コーチとして正式契約し[14]、翌6日からの秋季キャンプに合流していたが、2004年春季キャンプイン直前の1月22日、「家族の事情」を理由に退団を発表した[15]。
 
オリックス退団後、ニューヨーク・メッツ傘下マイナーチーム(A級)のブルックリンの監督に就任した[16]。しかし同年4月8日、フロリダ州ポートセントルーシーで性器を露出する事件を2件起こしたとして公然わいせつ容疑で逮捕され、同日付で監督を辞任した[17][18]。
 
現在は、日米スポーツ交流のコンサルティング会社を経営している実業家である。
 
人物
日本語を大変流暢に喋ることができる(兄のレロンは対照的に日本語を喋れなかった)。レオンの大洋時代に対ロッテのオープン戦でマイクロフォン搭載の帽子を被ってプレーする企画が行われ、試合中も他の選手と日本語で会話する様子が紹介された[19]。オリックス監督時代もインタビューは日本語で、チームの不甲斐無さに「情けないよ」を連呼していた。休日には庭園や寺院を散策するなど、日本文化にも理解を示そうとしたという。また自宅にチームメイトを招いて催しをするなど社交的で活発な性格でもあったため、所属先を問わず愛された。当時大流行していたスペースインベーダーを好み、1979年シーズン前にロッテファンの会社社長から「ホームラン20本以上打ったらインベーダーの機械を買ってやる」と約束され、その年35本塁打を記録すると実際に1台30万円以上のゲームの筐体を贈られた[20]。
 
中日ドラゴンズを舞台に外国人選手を主人公として描かれた映画『ミスター・ベースボール』のアドバイザーを務めた。
 
ハイスクール卒業後の1971年、セントルイス・カージナルス傘下のルーキー級のチームで、のちにプロレスラーとして活躍することになるランディ・サベージ(本名:ランドール・ポッフォ)とチームメートだった[21]。