土曜日は、仲の良い友人たちと花火を見ました。
隅田川の花火大会。
去年から開催されている「玉や会」(←呼称は、私が今決めました。)は、
友人A(以下、シュワッチ)の協力で今年も楽しませてもらいました。
シュワッチの部屋からは、真正面に大きな花火を見ることができて、
圧巻&感動です。
花火が終わったあとは、みんなで飲んで笑って騒ぎました。
友人B(以下、リーダー)は、今までにない行動パターンで
長い付き合いの私でも、かなり笑えました。
いいよ~!
リーダー!!
って、シュワッチごめんね。(あのセーターは、捨てるのかな?)
かなり面白かったです。
それにしても、やっぱり日本の夏は、花火だね。
ちなみに、
なんで「鍵や~!玉や~!」って言うのかを調べてみました。↓
<日本の花火の歴史>
日本で花火が製造されるようになったのは16世紀の、鉄砲伝来以降である。
『宮中秘策』(1741年 )によれば、1613年 に徳川家康 が江戸城 内で花火を見物したというのが、花火という語で確実に花火が使われたと分かる最も古い記録である。ただしこれより前、1589年 に伊達政宗 が仙台 で花火を楽しんだという記録(『伊達家治家記録』)、1582年 4月14日にポルトガルのイエズス会 宣教師が現在の大分県臼杵市 の聖堂で花火を使用したという記録(『イエズス会日本年報』『フロイス日本史』)、1558年 もしくは1560年 に現在の愛知県豊橋市 にある吉田神社の例祭で花火を始めたという記述(『三河国古老伝』、『吉田神社略記』)、1585年 に、現在の栃木県藤岡町 で、皆川山城守と佐竹衆が戦のなぐさみに花火を立てたという記述もある。ただ1585年の件については、戦の最中に当時貴重だった火薬をそのようなことに使うはずがないという主張もされている。
江戸時代になり、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場した。1648年 には幕府が隅田川 以外での花火の禁止の触れを出しており、花火は当時から人気があったとされる。当時のものは、おもちゃ花火であったと考えられる。現存する日本で最も古い花火業者は、東京(当時の江戸)の宗家花火鍵屋であり、1659年 に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出した。
鍵屋初代弥兵衛は大和国 篠原 (奈良県 五條市 )出身であり、幼少の頃から花火作りに長けていたと言う。1659年 、江戸に出てきた弥兵衛は葦の中に星 を入れた玩具花火を売り出し好評を得た。弥兵衛はその後研究を続け、両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになった。
その後大型花火の研究を進め、1717年 には水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げている。1733年 、関西を中心に飢饉に見舞われ、江戸ではコレラが猛威を振るい打数の死者を出した暗い世相の中、将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、それに合わせて大花火を披露し、これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われている。
鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋である。玉屋は鍵屋の手代であった清吉が1810年 に暖簾分けをし、市兵衛と改名の上、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりである。
このように鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになった江戸では、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになった。当時の浮世絵を見ると玉屋の花火は多く描かれており、また「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情なし」という歌が残っていることからも、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられる。しかし1843年 、玉屋から失火、店のみならず半町ほどの町並みを焼くという騒動があり、失火は重罪と定められていた当時であり、また偶然将軍家慶の東照宮参拝出立の前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は闕所 (財産没収)、市兵衛は江戸お構い(追放)となってしまい、僅か一代で家名断絶となってしまった。
当時は、鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれた。このほか、大名らが配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げたという。これらの花火は武家花火と呼ばれる。特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩 、紀州藩 、水戸藩 の3つの徳川家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気があった。また仙台の伊達家の武家花火も、伊達政宗 以来の豪放な藩風を反映させ、仙台河岸の花火として江戸町人の人気を得、見物人が大挙押しかけ。藩邸近くの万年橋 の欄干がおれるという事故まで発生している。武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化したもので、狼煙花火と呼ばれ、いわば垂直方向に着目した花火であり、色や形を楽しむ仕掛け花火を中心とした、いわば平面に特化した町人花火とは方向性が異なった。この方向の違いを共に取り入れたのが現代の日本の花火技術である。
日本煙火芸術協会創立者で煙火に関する書物を数多く著した花火師の武藤輝彦(1921年 -2002年 )によれば、打揚花火は、1751年 に開発されたとされている。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている。
鍵屋は第二次世界大戦期に十三代天野太道が花火製造を取りやめ、現在は打ち揚げ専業業者となっている。このため、鍵屋は第二次世界大戦期まで現存したといわれることがある。
花火に関しては特に江戸での記録が多く残っているが、これ以外の地方で花火が製造されなかったわけではない。特に、外国と交易のあった九州と、長野、愛知などでは、江戸時代から花火がつくられていた。特に、三河国 岡崎地方(現在の愛知県 岡崎市 付近)は徳川家康の出身地ということで、火薬に関する規制がゆるやかであり、江戸時代から町人が競って花火を製造した。現在も岡崎周辺におもちゃ花火問屋が多いのはこの名残だといわれる。これ以外の現在の花火の主な産地は長野県、新潟県、秋田県、茨城県で、徳川家にゆかりのある地方が多い。
明治時代になると、海外から塩素酸カリウム 、アルミニウム 、マグネシウム 、炭酸ストロンチウム 、硝酸バリウム といった多くの薬品が輸入され、それまで出せなかった色を出すことができるようになったばかりか、明るさも大きく変化した。これらの物質の輸入開始は1879年 から1887年 にかけて段階的に行われ、日本の花火の形は大きく変化した。これ以前の技術で作られた花火を和火、これ以後のものを洋火と言い分けることもある。
新たな薬品によって多彩な色彩を持つ鮮やかな花火が誕生した反面、化学薬品に対する知識不足から相当な事故が発生したのも明治時代である。特に塩素酸カリウムは他の酸性薬品と混合すると不安定になり、僅かな衝撃でも爆発する危険性が高まる性質を有しており、和火時代の酸化剤として使用していた硝石と同様に扱った場合重大な事故を招く結果となった。
多彩な色彩を持った洋火を大規模に打ち上げた記録としては、1889年 2月11日 の大日本国憲法 発布の祝賀行事で、二重橋から打ち上げたものである。
それまで、花火の製造は打ち揚げには何の免許も規制も存在しなかったが、1910年 に許可制となった。これ以前の地方の花火は、農家などが趣味で製造しているものが多かったが、この後、化学知識を駆使する必要から花火師の専業化が進むことになる。
大正期には発光剤としてのマグネシウム やアルミニウム などの金属粉が登場し、夜空により鮮やかに大輪の華を咲かせられるようになり、また塩素酸カリウムに鶏冠石 を混合した赤爆を編み出し、大きな発音効果を有す花火が完成していった。
このように順調に技術を発展させていった花火であるが、昭和に入り戦火が拡大する世界情勢で停滞期を迎えることになる。花火製造は禁止はされないかわりに高い物品税 がかけられたが、それでも当初は出征兵士壮行の花火や、英霊の向かえる慰霊花火など、慰霊祭や戦勝祈願の花火が上げられていた。しかし戦火の拡大により隅田川川開きの花火大会も1937年 に中止となった。そんな中、花火製造業者は防空演習で使用する発煙筒や焼夷筒(焼夷弾の音を再現する)を製造していた。
終戦後は1945年
9月
に長野市
の諏訪神社
で花火が揚げられるが、翌10月
に連合軍総司令部
により火薬製造が禁じられた。しかし、1946年
7月4日には、各地のアメリカ軍基地で日本業者がアメリカ独立祭の打ち揚げ花火を揚げ、戦後初の花火大会として1946年9月29日
と30日
に土浦市
で開催された第14回全国煙火競技大会(現在の土浦全国花火競技大会)、1947年
の新憲法施行記念で皇居前広場(皇居前広場では最後の花火打ち上げとなった)などが行われた。
日本の花火製造業者の粘り強い説得により。1948年 にはGHQが在庫花火の消費を許可、これうを受け両国花火組合主催、読売新聞社が後援、丸玉屋小勝煙火店が単独で打ち上げる、両国川開きの花火大会が1948年 8月1日 に復活した。この時は打ち上げ許可量僅か600発であったが、平和な時代大輪の華に70万人の観客があった(『両国川開年表』)
終戦後はおもちゃ花火を含め、日本の花火は海外に多く輸出されたが、現在は中国からの輸入量のほうが多く、輸出は激減している。現在でも多くの花火業者は、地元に根付いた零細・中小企業であり、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっている。
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