今日は最悪です。
勇気を出して、妻に週末食事をしようとメールで誘ったら断られました。
そのとき、自分でも信じられないぐらい動揺しました。
単に食事を断られただけでです。
断られることは過去に1回もなかったから、別れが現実のものとして
迫っていることを肌で感じたのだと思います。
ブログでも散々がんばると書いていて、頭ではよくわかっているのに、
気持ちはついてきてないんですね。
死ぬほど苦しいです。
たぶん、妻がとても悲しんでいるであろうことに対する申し訳なさ、
別れが近づいていることに対する純粋な悲しみ、妻の今後を心配する
気持ち、自分自身が孤独になってしまうのではないかという恐怖・・・
などがごちゃまぜになって、一気に襲ってきました。
こんなに苦しいなら、いっそ妻の所へ戻ってしまおうか、と思います。
だけど、間違いなくそれは同じことの繰り返しになり、さらに大きな
苦しみにつながることはわかっています。
妻にとっても自分にとっても乗り越えなきゃいけない、と思います。
だけど、この苦しみからの逃げ場がないと思うと、絶望感で消えて
しまいたい気持ちです。
自分自身が全然わかりません。
僕が目指す方向からすれば、むしろ前に進んでいるのに。
こんばんは。
今日は朝起きるとすばらしい天気でした。
けれども、心は反比例して、余計虚しさが募ってしまいます。
不健康ですね。。。
今日は孤独について考えたので、書きます。
僕は孤独感に押しつぶされそう、とか時々言いますが、これは
一体なんなんでしょうか。
誰かと一緒にいたいという寂しさとか、見捨てられ不安なのでしょうか。
肌寒くなり、人肌恋しい季節になってきたので、一層きつい気がします。
僕は、これまでの人生で、いわゆる「一人暮らし」をしたことがありません。
妻と別居しているこの1年が初めてなのです。
ですから、別居後しばらくは開放感でとても快適でしたが、その後は
徐々にトーンが下がり、今年の春ぐらいからは、週末は何か予定を
入れなければ寂しくてたまらなくなり、彼女が会えない、などという時は
パニックになりそうでした。
平日も誰かと飲みに行かなければ、と必死でした。
「人間は一人では生きられない」という言葉をよく耳にしますが、僕は、
それを拡大解釈して、無理やりにでも誰かと一緒にいることを正当化
しようとしていた気もします。
先日、映画「IN TO THE WILD」というDVDを観て、感動しました。
主人公は大学卒業後、自分探しの旅に出て、3年ほどの放浪の後に、
有毒な植物を口にして亡くなります。
彼はずっと手記を書いていきますが、最後の言葉は、
「幸せは、それを誰かと共有することで初めて現実となる」
というものでした。
では、孤独には意味がないのか、人間には必要のないものなのか、
孤独感を回避することはできないのか。
例の本(「ミドルパッセージ 生きる意味の再発見」)からの引用です。
またか、という感じですが(^^;
「自分自身と一体化すること-わたしたちはそれを孤独と呼ぶ-を
目指すことによって孤立化するリスクを背負うことは、人がミドル
パッセージを生き残ろうとするとき、不可欠なのである」
ということで、孤独というのは必要なもののようです。
けれども、人はみなそれを恐れていて、哲学者のパスカルも
「あらゆる近代文化はわたしたちを寂しさから、そして自分について
考えることから遠ざけるための気晴らしなのだ」と言っているそうです。
では、寂しさ、孤独を乗り越えるにはどうしたらいいのか。
寂しさと孤独は隣りあわせで存在しているようで、寂しさから孤独への
移行が重要のようです。
「孤独の中でこそ個性化の進展は可能になるのだが、それに必要な
孤独へと移行するためには、日々『何がそんなにこわくてわたしは
自分自身を、つまり自分自身の旅を避けているのだろうか』と意識的に
問わねばならない」
「喪失を経験し苦しんだ人は(中略)、同時に次の問いかけもしたはず
である。『わたしの知らない自分のどれほど多くの部分が、その人や
その役割に縛られていたのだろう』と。」
言いたいことを要約しますと、私たちが孤立化しないようにするために
使っていたパワーを、自分自身のために使う、ということでしょうか。
例えば瞑想をするなどして、静寂の中で自分と対話をすることで、
自分自身との友好関係が築かれ、孤独自体が寂しさを癒せることに
気づく、ということのようです。
わかんなくはないですが、難しいですね。。。
僕は、まだ寂しさの中にいて、「孤独がそれを癒す」というのは全く
実感が沸きません。
けれども、確かに、「なぜ孤独がそんなに怖いのか」ということを
自分に問いかけてみるのはいいかもな、と思いました。
結局は自分自身との対話のために「孤独」という状態が必要なんだと
理解しました。
また経験として言えるのは、孤独を紛らわす、あるいは寂しさを
紛らわせようとして、やりたくもないことをやると、余計虚しくなったり
します。時間もお金も無駄に浪費したりして。
とにかく、寂しいときも孤独なときも、それは試練なんだな、と思って
逃げずに向き合う、ということで。
引き続きがんばります。
今日も気分は晴れません。
原因はわかっています。
来週末にも妻と話をしようと考えていますが、それが
怖くて嫌で仕方がないのです。
今回が今までと少し違うのは、これまでは少なくとも1ヶ月に
1回は会っていて、少なくとも週に1回はメールで連絡を
とっていましたが、今回は1ヶ月以上メールもなしだという
ことです。ここまで一切連絡をしないのは初めてです。
甘ちゃんだと笑われそうですが、実はこれは自分にとっては
大きな変化です。
今までは妻が寂しがっているのではないかと不安になったときや、
自分が孤独を感じたときに、ついメールをしていました。
結局のところ、別居していながらも結婚していた頃と何も
変わらない共依存状態が継続していたのです。
1年別居して、やっと気づきました。
1年を無駄にしてしまったのです。本当に情けなく、ひどい話です。
ですから、その状態から抜け出しつつあるという前進している
手ごたえと共に、妻がどんな気持ちでいるのか全くわからない
ということが非常に不安なのだと思います。
自分の気持ちをよくつかんでみると、その不安な気持ちは、
単に妻の悲しみを自分の気持ちと同一視してしまう苦しみだけで
なく、妻が私に見切りをつけていたらどうしよう、という見捨てられ
不安もあるようです。
要は妻の僕への依存を断ち切れるかという不安と、自分の
妻に対する依存心を断ち切れるかという不安・・・。
これが共依存のやっかいなところです。
苦しすぎて、気を抜くと、もう一度妻とやり直せるかもしれない、
というような元の木阿弥の考えすら頭をよぎります。
妻と過ごした日々を思い出し、あの時こうしていればもっと上手く
いったはずだから、今度はそうすればうまくやっていけるのでは
ないか、などとその考えを正当化しようとする自分がいます。
戻ることはとても容易いことです。逃げだと思います。
ここで、しっかりと前に進まなければ、妻の私に対する強い依存と、
逆に自分の存在意義を見出すために行う、妻に対する僕の依存は、
いとも簡単に息を吹き返して、更なる苦しみを生むと思います。
今戻ったところで、数ヵ月後には、なぜ戻ってしまったのかと後悔する
日々が来ると思います。
共依存に関する本で、「共依存症 心のレッスン」という本を
読みました。その中の一節に以下のようなことが書いてありました。
「人々があなたの境界線を破ろうとすることを予期しておこう。
失うものが大きければそれだけ、相手は激しく攻撃してくるだろう。」
「元のさやに収まった後に抵抗すると、もっと大変なことになるだろう。」
妻と話をするときは、自分の気持ちをしっかりと確認して臨まなければ
なりません。
そして、今この決断をすることは妻にとっても必ず意味があることであり、
妻のためになると信じています。
一旦けじめをつけ、それぞれが個性ある別々の人間であるということを
認識できた上で、それでも魅かれあうのであれば、そのときに初めて
再生の可能性があるのかと思います。
今は前にも後ろにも進んでいない、1箇所に立ち尽くした状態です。
前に進みます。
原因はわかっています。
来週末にも妻と話をしようと考えていますが、それが
怖くて嫌で仕方がないのです。
今回が今までと少し違うのは、これまでは少なくとも1ヶ月に
1回は会っていて、少なくとも週に1回はメールで連絡を
とっていましたが、今回は1ヶ月以上メールもなしだという
ことです。ここまで一切連絡をしないのは初めてです。
甘ちゃんだと笑われそうですが、実はこれは自分にとっては
大きな変化です。
今までは妻が寂しがっているのではないかと不安になったときや、
自分が孤独を感じたときに、ついメールをしていました。
結局のところ、別居していながらも結婚していた頃と何も
変わらない共依存状態が継続していたのです。
1年別居して、やっと気づきました。
1年を無駄にしてしまったのです。本当に情けなく、ひどい話です。
ですから、その状態から抜け出しつつあるという前進している
手ごたえと共に、妻がどんな気持ちでいるのか全くわからない
ということが非常に不安なのだと思います。
自分の気持ちをよくつかんでみると、その不安な気持ちは、
単に妻の悲しみを自分の気持ちと同一視してしまう苦しみだけで
なく、妻が私に見切りをつけていたらどうしよう、という見捨てられ
不安もあるようです。
要は妻の僕への依存を断ち切れるかという不安と、自分の
妻に対する依存心を断ち切れるかという不安・・・。
これが共依存のやっかいなところです。
苦しすぎて、気を抜くと、もう一度妻とやり直せるかもしれない、
というような元の木阿弥の考えすら頭をよぎります。
妻と過ごした日々を思い出し、あの時こうしていればもっと上手く
いったはずだから、今度はそうすればうまくやっていけるのでは
ないか、などとその考えを正当化しようとする自分がいます。
戻ることはとても容易いことです。逃げだと思います。
ここで、しっかりと前に進まなければ、妻の私に対する強い依存と、
逆に自分の存在意義を見出すために行う、妻に対する僕の依存は、
いとも簡単に息を吹き返して、更なる苦しみを生むと思います。
今戻ったところで、数ヵ月後には、なぜ戻ってしまったのかと後悔する
日々が来ると思います。
共依存に関する本で、「共依存症 心のレッスン」という本を
読みました。その中の一節に以下のようなことが書いてありました。
「人々があなたの境界線を破ろうとすることを予期しておこう。
失うものが大きければそれだけ、相手は激しく攻撃してくるだろう。」
「元のさやに収まった後に抵抗すると、もっと大変なことになるだろう。」
妻と話をするときは、自分の気持ちをしっかりと確認して臨まなければ
なりません。
そして、今この決断をすることは妻にとっても必ず意味があることであり、
妻のためになると信じています。
一旦けじめをつけ、それぞれが個性ある別々の人間であるということを
認識できた上で、それでも魅かれあうのであれば、そのときに初めて
再生の可能性があるのかと思います。
今は前にも後ろにも進んでいない、1箇所に立ち尽くした状態です。
前に進みます。