われわれのもつ可能性にくらべると、現実のわれわれは、まだその半分の完成度にも達していない。われわれは、肉体的・精神的資質のごく一部しか活用できていないのだ。概していえば、人間は自分の限界よりずっと狭い範囲内で生きているにしかすぎず、いろいろな能力を使いこなせないままに放置しているのだ。
ウィリアム・ジェームズ
この言葉を聞くだけで、頑張ろうという気になる、やる気がわく。
犬が少しでもいいことをやると、なでたり、肉を与えたり、大げさにほめてやる。
このやり方は、決して新しくない。動物の訓練には、昔からこの手を用いている。
われわれは、このわかりきった方法をなぜ人間に活用しないのだろう?
なぜむちのかわりに肉を、批評の代わりに賞賛を用いないのだ?たとえ少しでも相手が進歩を示せば、こころからほめようではないか。それに力を得て、相手はますます進歩向上するだろう。
私は、人間はとどのつまり動物であると思っている。いくら難しい話をして、聖人君主のような倫理を述べたところで、人間は動物の範囲から出ることはない。
人間は、動物と長い間付き合ってきた。
それを主従関係とは思わない。思っているのは、人間だけで相手方からすればパートナーであると思う。
人間側だけでなく相手側にも、メリットがあるから生活を共にするだけだと思う。
人間は、相手が言葉をしゃべれないから、逆に動物に対してはその気持ちを感じ取ることができるし、その気持ちに答えたくなる。
だから、この種をこえた者同士が同居する。
それに対して、人間同士の関係は言語の頼りすぎである。
非言語のコミュニケーション、そして、そこからのニーズを読み取ることをしない。
心理学者のジュス・レアーは次のように書いている。
ほめたことばは、人間にふりそそぐ太陽の光のようなものだ。それなしには、花開くことも成長することもできない。われわれは、事あるごとに批判の冷たい風を人に吹き付けるが、ほめことばという暖かい日光を人にそそごうとはなかなかしない。