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看護師ayamiの海外医療ガチblog

国際医療協力活動のマネージメントに日々奮闘中の看護師の日記。ジャパンハートのミャンマー・カンボジア・ラオス・日本での活動の舞台裏を紹介します。知られざる人間ドラマやちょっと笑える珍事件など盛りだくさん!アジアの子供たちの笑顔や料理なども写真でお伝えします。



病院建設の話が出て、私がカンボジアに移住してきてからここまで約2年かかりました。
その間、土地の購入から土地の売却、現地保健省との打ち合わせ(数え切れない)、弁護士事務所への通所(数え切れない)、雨季の洪水調査、建設会社との打ち合わせ(数え切れない)、医療機器の価格調査、広報Web作成などなど、、、

もはや看護師でもなんでもなく、これを職業でいうと何なんだ!?
ナース彩未もやめるか。



そのおかげで、カンボジアの国家と君が代の合わせ技にはぐっときちゃいました。
あ~~年とって涙腺弱まるとはこのことだ桜



カンボジア保健省大臣・長官、知事、カンダール州保健局長、日本大使館などのお偉い様方。
今までもこれからもお世話になる方々です。



病院は今月から建設が始まり、来年5月に開院の予定です。
最初は40床ほどの小規模な貧困層向けの病院です。
診療科目は、外科、内科、小児科、周産期科。
カンボジア人医療者や医学生も研修できるような病院を目指します。
この病院の開院と同時に、Phase2の建設(周産期センター)、その後Phase3の建設と進む予定です。



開院までは色々忙しくなりますが、それも含めてワクワクしてます!!
興味のある人は、ここを見てね。
↓↓↓
病院Webサイト「みんなで彩ろうカンボジア病院」
http: //irodorucambodia.org


日々是勉強かたつむり
ナースショック!彩未
 
一年前義理兄はベトナムで手術を受けた。お腹のがんだが腫瘍が大きく取りきれなかったのでパイパス(対症療法)だけ造ったと医師から告げられた。抗がん剤治療を勧められるが経済的な問題も去ることながら病院での生活はまっぴらだと義理兄はこれを断った。
私はこの時あと数カ月の命だと覚悟した。

あれから10ヶ月。時々背部痛や食後の違和感はあるものの田舎で家族と一緒に過ごしている。
義理兄はこの間、周囲からがんが治ると言われている一袋一万円くらいするサプリメントを信じて飲み続けていた。

先日、手術を受けたベトナムの病院にその後のフォローアップのため訪れた。
そしてどうやらがんではなかったと言われたそうだ。(えっ!?)
連れて行った通訳のレベルのせいになった。。
ただ摘出するには難しい場所にあり、やはり手術は受けられないと言われたそうだ。
私は腫瘍専門の病院に行くことを勧めた。だが義理兄はこれを断り、周囲から重病を治療できる人がいるというコンポンチュナム州(義理兄自宅から100Kmは離れているのではないか)に3週間泊まり込みで治療を受けに行った。(え~!?)

3週間後、義理兄に電話をすると、症状がよくなった。治ったと。(めまい叫び
そこにはカンボジア中から重病の人が訪れ、タイ人などの外国人もいるようだ。
まず2週間は腫瘍を小さくするための薬を飲み、その後腫瘍を摘出するための儀式が行われる。
仙人のようなおじいさんが、義理兄のお腹を吸い、出てきたのがこれ。(ちょっと笑える)


魚の切り身のように見えるが。。
いやいや、本人は信じているのだから、笑ってはいけないシラー
他の病院ではもう手遅れと治療を断られ続けた人たちがここを訪れ、この先生によって救われているようだ。患者たちは感謝の表しに車や家などを贈呈しているらしい。

義理兄が背部痛の症状をとってほしいと告げると、その原因は石だという。
それがこれ。じゃ~ん!(こらえて)



でも症状は確実に良くなっている。(今は)
日本も病は気からというもんね。
CTは半年後にとってくれと言われたらしい。

カンボジアでは病気が治ると、家に僧侶を呼び、お経を唱えてもらう。
家族、親戚、近所の人が集まり、健康を祈願する。
当然私も呼ばれた。複雑な気持ち。

そうだな~。もしCTから腫瘍が消えていたらどうしようか。
まずはこの国での医療支援活動に幕を下ろし、日本から患者受け入れビジネスでも始めようか。

カオス!!!



ナースショック!彩未
 
今回訳があって数日日本に一時帰国することになったのだが、今回は偶然「自分のルーツを知る旅」となった。
母の妹が私の家に遊びに来た時のこと。
今まで少し興味のあった母や叔母の幼少期の頃についての話を聞いてみた。

ルーツその①
6人兄弟のヒサ子(私の祖母)は大正生まれ、山口県。
祖父智との間に4人の子どもを授かる。その長女が私の母、正子である。
ヒサ子の母(ヨキ)は、昔でいえばかなりの変わりもの(やり手)だったらしい。
当時、山口にいた鍛冶屋出身の旦那との間に子どもは6人。息子はみな戦死した。
ヨキは当時では非常にめずらしく、仕事ができないと旦那の文句を言いつつ、女手一つ横浜に出稼ぎにいったりしていた。
横浜では果物屋。その後、山口に戻り料亭の女将、その後、3店舗を仕切る呉服屋の店長。
その間も、鉱山労働者に物を売ってがっぽり稼いでいた。
叔母は幼少期にヨキの金庫に大量の宝石が入っているのをみたことがあるらしい。
その後おヨキはヒサ子の結婚後、その住居費用や孫たちの学費までをサポートしていた。

ルーツその②
智(私の祖父)の実家は、山口県宇部にあった。武士と商人との掛け合わせの家系で位はごく普通?(谷口組という隣組の長をしていたらしい)
9人兄弟の長男であった智(祖父)は志願兵で衛生知識を勉強をしていた。
医学書のようなもの(恥ずかしい部分も載っている)が家にはたくさんあり、私の叔母は祖父が一体何のためにこんなものを勉強しているのだろうと思ったそうだ。
太平洋戦争から生還した智は、社会から後ろ指さされながら市役所に勤めることができた。
この智も20年ほど前に既に亡くなっている。
実はこの智、太平洋戦争中はミャンマーへ行っており、
日本に帰国する時、ミャンマー人の親しかった女性にかなり引き留めたらしいと祖母ヒサ子が語っていたことを叔母が話してくれた。(ミャンマーで異母兄弟出現!?)

今は智とヒサ子の実家は残っていない。

ルーツその③
智(祖父)の兄弟に、一人看護師がいた。
彼女は、従軍看護師として第一線で活躍し、国から表彰を受けた。
結局定年まで赤十字病院で看護師長として勤め上げた。
なんと、この人、現在もまだ生きているらしい。
その人に会えるかと叔母に聞くも、どうやらヒサ子(祖母)との間に確執があるらしく、
音信不通とのことであった。
どの時代もあるねえ~むっ

家族って近くにあるが故、実はあまり知らないことも多くないはてなマークはてなマーク
今たまたま読んでいる本にも、「家族」と十把一絡げにすると、私には答えることができない。と筆者は書いている。

私としては、今回の話だけでも、謎が解けていく部分があった。
祖母の言動、母の子どもの育て方、兄弟の関係性などについてね。
「ルーツ」を解体していくと、本来の自分に会える気がする桜
父方の話も今度機会があれば聞いてみたい。

人生とは「自分を取り戻す時間」とよく言うが、その通りだと思ったお月見


はあ~日々是勉強。

ナースショック!彩未