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看護師ayamiの海外医療ガチblog

国際医療協力活動のマネージメントに日々奮闘中の看護師の日記。ジャパンハートのミャンマー・カンボジア・ラオス・日本での活動の舞台裏を紹介します。知られざる人間ドラマやちょっと笑える珍事件など盛りだくさん!アジアの子供たちの笑顔や料理なども写真でお伝えします。



カンボジアでは、10年間たまごを温め続ける事業をしていますねこへび
最近そのたまごが進化を遂げてきています。

何のたまごかってはてなマーク

へびですとかげ


・・・嘘です。


医療者のたまごです。


ジャパンハートは厳選なる審査のもと、田舎出身でかつ経済的に医療者への夢を諦めざるを得ない人物・学力ともに優れた学生に奨学金を提供しています。
この事業に里親として協力してくれている日本人たちがいます。クローバー
医学生は8年+卒後研修2年の計10年間、看護学生は4年+卒後研修2年の計6年間の長い支援です。
☆この事業について
↓↓↓
http://www.japanheart.org/cambodia/activity/yumenokakehashi/

(真ん中は医学部6年生のネアちゃん)

彼らは在学中から日本人と寝食を共にし、日本人医療者と働く機会を与えられています。
また学校が休みの時は事務作業の手伝いや日本語を勉強します本
門限を決め、横道に外れないよう彼らが尊敬してやまない恩師からの説教を2ヶ月に一回受けます叫び
お金を出す人、受け入れる人、学生自身の頑張りが合わさって、初めて成功する事業です。
こんな面倒な仕組みを6年真剣にやってたら、これが結構うまく回っています目(自画自賛・・笑)

このようにhands-onの教えを受けます。
彼らはひたむきで、吸収も早く好奇心旺盛コスモス

(今年看護師となったピエンくんと医学部5年生のロタナくん)

今年は初めて看護師の卒業生が出ましたべーっだ!
気づけばもう即戦力として現場で働いています。
現在学生は9名。来月にはまた5名増えます。
人材育成とは、大変な支援だとつくづく感じます。
それでもやらなければならないと思ったから、やると決めたのです宝石緑宝石紫


そこでジャパンハートは彼らを一人前の医療者に育て上げるべく、
卒後研修を受けられる病院を建設することにしました星
↓↓↓
☆特設サイト(病院建設に至った背景をお読みください)
http://www.irodorucambodia.org/

先は長いですが、一歩ずつ一歩ずつ進んでいきますかたつむり

(看護学部3年生スレイナイちゃんと医学部2年スレイレアちゃん、ホックレンくん)

ナースショック!彩未


以前、カンボジアの伝統医療について紹介しましたが、
そのときに登場した私の義理の兄が先月他界しました。50才でした。

私がカンボジアにきて間もないころ、実家に遊びにいっては彼だけが私のつたないクメール語を理解してくれました。結婚が決まったときにも一番に喜んでくれました。
一年前日本での結婚式に参加した直後から体の不調を訴え、病院を転々とし、闘病生活1年という短い間でしたが、余命半年と言われて一年生きた義理兄の頑張りを称えたいと思います。

今回は「カンボジアのお葬式」についてご紹介します☆



日本は病院で亡くなる方もいますが、カンボジアでは家で看取るケースが少なくありません。
ですので私が到着した時は、「本当に亡くなっているのかをみてくれ」と母に頼まれました。
その後、体をきれいに洗います。
風呂場に連れて行くと思いきや、カンボジアの住居は高床式で、床には隙間があいているし、少し端に寄せ洗って2階から1階へ水が落ち、最後に床をちゃっちゃっと拭けば問題ありませんシラーあせる
体をきれいにしたあとは、お坊さんを呼んで、家族や親戚で夜までお経を唱えます。
この日は遠くで暮らしている兄弟も集まり、皆で一緒に寝ます。



次の日は、朝4時から爆音の音楽が流れます。
続々と村人が集まり、その数200人。その人たちの朝食も遺族が振舞います。
こ~んなおおっきい鍋で。料理は村人たちが協力をして助け合いです。



これは何をしているところでしょうかはてなマーク
遺族の男性は、髪の毛をそります。これは「恩返し」の意味だそうです。
今回は、長男が坊主にしました。



みんなが白い服をまとい、お棺を家の2階から外に運び出します。
今から、お寺へ行くのです。
この間も爆音が続きます。



家の前で足並みをそろえます。
長女がお香炉を頭上で持ち、先頭を歩きます。
日中で気温が35度の中、爆音が続きます。。



この紐は、亡くなった方の魂を導くためだそうです。
行例でゆっくりお寺に向かって歩いていきます。
お寺の境内には、一番上の写真のような火葬場が設置されています。
これは毎日あるものではなく、葬儀があると人の手で組み立てられます。
階段を上がってお棺を一番上に置きます。
参列者によって送り火が灯され、爆竹のようなものに点火。
「ぱんぱっぱん!!」というお~きな音が出ました。
その後煙突から煙が出て、一日かけて火葬しました。



夜はこのように点灯し、花火があがります。
翌日、参列者が集まり、お骨を拾います。
近年カンボジアでは地方でも火葬が一般的になりつつありますが、経済的に厳しい家庭は土葬もあるようです。

所変われば風習も違います。
でも、変わらないものもありました。
それは「愛」でした。


ナースショック!彩未



皆さん、はじめまして&お久しぶりですブタ
ナース彩未こと長谷川彩未です。

今回は病院建設Webのアップに合わせ、改めて自己紹介させて頂きますねこへび
http://irodorucambodia.org

私を例えるなら、顔はドS刑事の多部未華子、行動は小動物、体系は土偶とよく言われます。

千葉県富津市出身。東京湾沿いの海町波で育ったため、口が悪いです。
残念ながら文武両道という器用な一面はなく、小中高では朝から晩までスポーツに明け暮れ、成績は体育と生物、保健以外は叫び叫び
授業は睡眠の時間でした。高校の時にはまるでドラマのように本当に廊下に立たされました。
看護大学入試は8校落ちて、最後は補欠からの繰り上げ合格という偉業を成し遂げました。
お陰さまで、郵便物を手渡された瞬間、合格か否かを見極める感覚が身につきました。


こんな私ですが、今はジャパンハートのカンボジア事業と国際緊急救援事業の責任者をさせてもらっています。


私とジャパンハートとの出会いは9年前の2006年。
それまで都内の大学病院で勤務していたナース彩未は、海外の医療現状に興味を持ち、
自分の力を試してみたいと思うようになりました。

2006年~ジャパンハート国際看護長期研修というものに参加し、ミャンマーでの臨床医療に携わりました。
その後2008年~2011年までカンボジア事業の立ち上げ、
2011年~東京事務局体制整備や東日本大震災支援に統括者として関わりました。
その後は英語の話せない海外事業部長として海外を回る日々を送り、
2013年ここ、カンボジアに再び舞い戻ってきたというわけです。

まっ、一言でいえば、ジャパンハートに青春を捧げたわけです桜

私が常日頃から思っていることは、”一人でやることには限界がある”ということ。
よって、良い仲間としくみを作り世界に広げたいと思っているのであります。
それを情熱を持って最高に楽しむ虹
これが私のポリシーです。

最後まで読んで頂きありがとうございました。
現場で皆さんにお会いできることを楽しみにしています星

ナースショック!彩未