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看護師ayamiの海外医療ガチblog

国際医療協力活動のマネージメントに日々奮闘中の看護師の日記。ジャパンハートのミャンマー・カンボジア・ラオス・日本での活動の舞台裏を紹介します。知られざる人間ドラマやちょっと笑える珍事件など盛りだくさん!アジアの子供たちの笑顔や料理なども写真でお伝えします。

1月から追加検査や渡航のための申請を始め、ようやく一通りの準備が終わろうとしている。

こちらでのパスポートやビザの申請は、なかなか思うようにスムーズにいかないものだ。

パスポート申請に必要なIDカードと呼ばれる身元証明書がない人もいる。

レッカナー本人や家族も、このために何回も首都のプノンペンに足を運んだ。

まっ、でもなんだかんだで、今月後半には治療のため日本へ渡れることとなりそうだ。

日本ではおそらく3ヶ月ほどの治療を行い、カンボジアに帰国後もこちらの国立病院で引き続き治療を続ける。

 

日本での治療が受けられるということは、この国の人々にとっては『奇跡』に近い。

それは、とても大きな希望であり心の支えでもある。

本人と家族が掴んだその希望が繋がるように、私たちは全力でサポートしたいと思う。

 

もしかしたらこのようにアジアの人々が日本での治療を『奇跡』と思う時代の終焉はすぐそこまで来ているのかもしれない。

だって、あと10年後には本当にどうなっているかわからない。

だからこそ、「今」がとても大切ではないかと思う。

 

一期一会。

 

今日も相変わらず健気な笑顔で現場にいる私たちに元気を与えてくれるレッカナー。

これからの日本とカンボジアでの治療、頑張ってね。

そして私たちも一緒になって応援させてね。

 

ナースイヒ彩未

 

 
2017年1月25日

初めて会った時の母親の目は生気を失っていた。

何かただ事ではない雰囲気を感じた。
 
話を聞くと、5歳の娘のお腹に硬い塊が触れ、診てもらいたくて来たという。
医師によるエコーでは、たしかに腫瘍様の像がある。
詳しい検査が必要になった。
 
その後も話を続けると、5年前にこの子のお姉ちゃんにも同様の腹部腫瘍があった。
カンボジアの小児医療では有名な病院で手術を受け、一週間後に家で亡くなった。
偶然にも、5歳という同じ年齢だった。
 
子どもが自分より先に逝ってしまうことほど悲しいことはない。
「この子も同じことになったら、、、」
うつむきながら語る母親の横で、無邪気な笑顔を振りまくこの子の名前はLeakna(レッカナー)ちゃん。
 
父親の職業は工場職員で月に200ドル(日本円で22000円ほど)の収入。
母親は、主婦。今は長男とLeaknaと4人暮らし。
家は病院からバイクで5分のところにあり、もともとこの病院の存在を知っていた。
 
事がうまく運ぶときには、タイミングが揃うものだ。
もともと2日後にカンボジア入りを予定していたジャパンハート代表の吉岡医師が診察。
「より設備の整った日本での手術が必要」となり、すぐに日本で受け入れてくれる病院を探す。すると今回も国立病院機構 岡山医療センターが受け入れを快諾してくださり、日本行きの準備を始められることとなった。
 
実はこの後我々が具体的な支援の話をするまでの間に、
日本での治療費など払えるはずもないと思った家族は、カンボジアで唯一無料で小児治療を行える5年前に長女が亡くなった病院に行ったらしいのだが、CTの結果が分かるまでに怖くて退院してきたという。
いわずもがな、心の傷は根深い。
 
「絶対にこの子を救わなければ」
ここにいるスタッフは同じ気持ちで、今も各種準備を進めている。
 
ナースチュー彩未
 

 

 

「出るよ~~っ!!!!」

 

超激痛の中、冷静に赤ん坊の泣き声を確認し、私は薬で眠りに落ちた。

 

10/20に3398gの男の子を出産した。

破水後2晩たっても陣痛が進まず、子宮口9,5cm(10cmで赤ちゃんが出てくる)までねばったものの、子宮破裂で緊急帝王切開となった。

4000ccを超える大量出血で、地元の産院から輸血設備のある大きな病院に搬送された。

幸い、母子ともに命に別条はなかった。

 

・・・と、書いていても本当にこれが私に起こったのか!??と今でも他人から聞いた話のような気分だ。

 

8日間の入院中は、傷の痛みや疲労感よりも、一刻も早く体力回復せねばという気持ちで、まずい食事もたいらげた。

ヘモグロビン(貧血の時には値が低い)が6台前半(通常は12~16)だったが、ふらふらしながらもゆっくり地面を踏みしめるように足を慣らした。

 

赤ちゃんに初めて会ったのは出産日から4日後のことだった。

わが子を抱いた瞬間は、なんとも言えない幸せを噛みしめた。

 

退院してからも、一ヶ月間は貧血で母乳が出なかった。

2か月目からは出始めたものの、乳首に亀裂ができ、これまた悲鳴をあげるほどの激痛との闘いだ。

骨盤の歪みから腰痛もあり、一時はぎっくり腰のようにまともに立てなかった。

出産後も各所の違和感、不眠、食事や行動範囲の制限は続く。

 

・・・こんな想いをして母親になるという意味はなんだろうか。

社会からの孤立感を感じ、「これってちまたのマタニティーブルーってやつ?」という時期もあった。

それでも“人と話をする”という当たり前のことが、私をそこから救ってくれた。

人との繋がりとはこういうことなのかと、今まであまり意識していなかったことに気づいた。

 

人間って本当に生かされているんですね。

 

皆さま、明けましておめでとうございます。

今年もゆっくり型更新ですが、国際医療現場のあれやこれを直球でお伝えいたします。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

ナースぼけー彩未