皆様へ


冬本番になってきました。


クリスマス、年越しそば?、お正月と楽しいイベントが続きます。


お風邪など引かないように。


さて、先日ご紹介をした朝日新聞の記事を翻訳してくれた

ファンの方がいます。

ありがとうございました。


コメントですと、途切れ途切れなので

こちらでご紹介します。


ミコさんが、なぜジャズを歌うようになったか

そのヒントが隠されています。

ぜひ、ご一読を。



1960年代から大変有名な日本のポピュラー音楽のスターである弘田三枝子を知っていますか?


たぶん、知らないでしょう。でも彼女の生まれた国のほとんどすべての人は、知っています。

私は彼女に最近、ここロサンゼルスで初めて会いました。弘田さんは、内緒のレコーディングから戻るために通りをマネージャーさんと歩いていました。

共通の友人が会うように進めてくれました。

その後、マネージャーさんからできあがったばかりの、最近40年間に録音された、ジャズ主体のアルバムを集めた8枚組のCDボックスを贈ってもらいました。すべてが、すばらしかった。

わたしは、これがこれまでに出されたなかで、もっとも大きな日本のジャズ録音のセットだと信じている。こんな事は、余計なことだが。

日本には、1960年代、ミコ(日本のファンはこう呼ぶ)が10代後半のときにミコの
歌を聴いたエラ・フィッツジェラルドが「養女にしたい」といったという言い伝えがある。


わたしは、これはエラが手元で教育したい、と言ったのではないかと思っています。

弘田さんの英語はすばらしいというわけでもないので、エラにとっての関心を引くエピソードではあったが、あまり
深入りはしなかった。

しかしながら、弘田はどのようにしてジャズの晴れ舞台で歌うようになったのか、という
心がウキウキするような話をしてくれました。

すべては、1964年に新幹線の中でジャズプロモーターの
ジョージ・ワインに会ったことから始まります。

そのときまでに「ダイナマイトガール」として知られていた弘田はブレンダ・リーやアネットの曲を日本語で歌っていました。ワインは、彼女をジャズを歌えると説き伏せた(まだ聞いたことがないにせよ)。

弘田が私に語ったことは、要するに、東京でのオーディションでワインの伴奏で歌い、その後彼女は、私には尊敬を込めた声で言ったのだが、フランク・シナトラと同じのステージで1965年のニューポートジャズフェスティヴァルに出演すると知ったのだ。

彼女はビリー・テイラーのグループの伴奏で8曲を歌った。

つづいて彼女はほとんどがボブ・ダラフの歌からなるLP「Mico in New York」は彼女の十分ではないジャズ表現を表しているのだが、本当にすばらしい。

次のアルバムは彼女のジャズへのさらなる理解の深化と研鑽振りを示している。

「New York」はボビー・スコットがプロデュースしている。

そのLPではビリー・テイラー・トリオが伴奏しているし、ベース奏者のベン・タッカー、ダラフの共同作曲
でもあるが、の存在は二人の作品に十分な内容を与える確かな理由ともなっている。

アメリカにいる日本人以外の人が彼女の歌を聴くことはあまりないとはいえ、弘田三枝子は
国内で広く知られた人で、おそらく私がこれまで座り込んで、すばらしくうち解けあった午後を
過ごした人のうちで、もっとも有名な人物です。サンフランシスコ・エクザミナー紙のために
開いていた映画関係の集まりを勘定に入れないならば。

ちょっと触れたように、弘田さんの英語はやや不自由で、私の日本語は全くひどいのですが、
私たちはすばらしい会話をすることが出来ました。

1960年代半ばからのスターは、いまだにファンを率いている。しかし、彼女は全く影響されないし、気取らないので、彼女が望むなら歌手としての浮き沈みから身をよけていることも出来る。私の日本人の友人が最近言ったように


「ミコ、彼女はポップクイーンだ」