印象派の作品にひさーびさに触れた。


そういえば、実家の部屋に飾ってある唯一の絵画は、

印象派の絵だったと思う。



海に船が浮かんでいる絵なんだけど、

水面と空とがキラキラ輝くようで、感動したのを覚えている。


実物の持つ輝きを持って帰れないのを残念に思いながらも、

感動の記憶を持ち帰りたくて買ったものだ。

でも、誰のなんていう絵かがわからない・・・

気になる。。。




さて、

学生の頃まで私が好きだった絵画は、

ルネサンス期やバロック期のものが多かった気がする。


ダイナミックな構図、精巧な技術に圧倒されたのはもちろんだけれど、

絵の背景にある神話や物語の方に興味があったんだろう。


例えば、パンやリンゴ、ワインにユリの花、深いブルー、女性・・・

絵の中に隠された宗教的意味や、

絵の背景にある聖書のエピソード、神話、その絵が誕生するに至った経緯を知って

「ふーん、おもしろーい!!」

って思ってた。


・・・が、絵から少し離れてしまった一つの原因は、

その裏にある物語とやらに疑問を覚えてしまったからだった気がする。



一つの絵画について、後世の人々がいろんな解釈を加える。

もちろん事実や史実に基づいて正しく議論されていることもあるんだろうけど、

あまりに飛躍的だったり、こじつけとも思える解釈もあって、

画家本人の本当の思惑なんてわからないのに・・・

と思ってしまった。

そうしたら、色あせて、すっと興味が失せてしまったんだった。





回想に入ってしまったけれど、そろそろ本題に。



一番好きだった絵が


mico Note

クロード・モネ 「ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光」


絵の前に立った時、

両手で心臓を直接ふわっと包まれたような、やわらかい気持ちになって

しばらく見入ってしまった。





あとは有名な、これ。


mico Note

クロード・モネ 「日傘の女性」


「光」をとらえたという印象派。

明るくて、柔らかい光が織りなす風景。

色彩がすきとおるようで本当に綺麗。





光の画家と称される、フェルメールが好きでした。

全然違う「光」をとらえ、表現するモネ。


モネの絵が、とてもとても好きになりました。

行ってみてよかった。


今日、ある女の人にあった。

意志の強そうな綺麗な目と、

八重歯を見せながらきらっと笑う、笑顔が輝く人。


その人が突然語りだしたことは、

私の想像を超えていた。



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どうやら、事故にあったらしくて。

全然覚えてないんですけど、頭から大量に出血したという話で、

生きているのが不思議なくらいなんです。


今こうして毎日生きているけれど、

言われたことを次々に忘れて、わけがわからなくなってしまう。

事故の加害者の人が、今は生活の面倒をみてくれています。


その人の家で、炊事・洗濯・おばあちゃんの介護をしているけれど、

計算や言葉を忘れていかないように、その合間合間にドリルをやってるんです。

でも、昨日やったはずのことが分からなくなったり、

どんどん忘れていって、自分が馬鹿になっていくのが怖い。


何かをするにも、こうして一つ一つ書いてもらわないとわからなくなるんです。


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そう言って、私の前にメモ置いた。

そこには、

何時にどこに行って、どう話すか、ってことが事細かに書いてあった。

バスは何時に出るので、ここから乗ってこの停留所で下りること。

家まで帰るルート。

今日一日のスケジュール。



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私、本当は仕事がしたいんです。

ちゃんと生活できるようにならないと、ダメになってしまう。


だけど、ダスキンのアルバイトですら、

次に何をやるってことをいちいち書いてもらわないとできないんじゃ、

雇ってももらえない。


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ここまでの話も、すっきり話したわけではなく、

言葉を選び選び、時々混乱しながら、

話も前後しながらやっと伝わった事柄だ。


こちらが何か説明しても、

あまり理解を得られなくて、何度も質問させてしまったので、

途中からはできるだけ簡単な言葉で、

シンプルに、何度も話すようにした。



なんだかすごくショックを受けた出来事だった・・・

似たような話を聞いたことはある。

だけど、実際本人の口から語られ、

目の当たりにして初めて、現実味を帯びた。


と同時に、覚えていることは覚えているのに、

すっぽり抜けてしまう部分があること、

理解できるところとできないところがあるところ・・・

その線引きや、状況の把握ができなくて、少々混乱したのも事実だ。




高次機能障害って言葉がふっと頭をよぎった。

手帳を持っている様子はなかったので、

案内をしてみたが、どこまで伝わっただろう・・・


専門的な知識を持った友人に話したところ、

色々と話をしてくれた。

そして、

「すごい話だね・・・でも、それもね、どこまで本当かわからないんだよね」

と、ちょっと悲しい表情をした。



それにもショックを受けた。

「嘘なわけないじゃん!!なんで嘘なんて言うの?信じてあげないの?」

っていうような彼女の言葉に対するショックではない。


「そうなの?」

っていうショックだった。

『現実』から受けたショックがさめないまま、

そもそも、それは本当じゃないかもしれないっていうもう一つの『現実』に受けたショック。


友人は日々、色々な病気の人と接している。

そこで彼女が学んできたこと、感じてきたことはきっと計り知れない。

彼女は優しさと冷静さを兼ね備えていた。



今日の一連の出来事、、、

ショックをまだ整理できていないけれど、

とにかく今日の出来事として書きとめておこう。










立場が変われば言うことも変わるよなーって思ったこと。



客観的に見たらこの事態はこういうこと。

だから、こうすべきなんだという理屈がありますね。

それはわかります。


でも、私はあなたの友達だから(その立場で物を言うので)、

客観的視点は踏まえたうえで、全然違うことを言います。



・・・そんな場面はいくらでもある。

(ま、敢えて客観的意見を述べることもあるけれど。そこはケースバイケース)


今日ちょうど職場の同期と話してて強く思ったんだけど・・・


恋バナ一つにしても、

友達の立場か、第3者的立場か、相手側の立場に立つかで、

見解や自分自身の思いは全然違ってくる。

(もちろん、その人との関係性によっても違うが)



前に友達が言ってくれたことば。

「私は、幸せになって欲しいから、こう言うんだけど・・・」

(注:細部の違いはお許しを。ニュアンスね)


ちょっと感動したの。

誰でもなく、私を思って発してくれたことが、心に響いたから。

わかってたはずのことなんだけど、

言葉にされたことで、改めて認識できたんだよね。



なんか、こういうあったかい思いがわかると、

じんわりした幸せな気持ちになる。

感じられるようになって、本当によかった・・・


昔の私は鈍感でした。

おそらく、自分自身ドライ過ぎた。

人は人、自分は自分っていうスタンスは変わってないけど、

「人」というものに対して、

思い入れとか、関心とか持ててない部分が多分にあったんだと思う。

で、言葉とか行動、その裏にある気持ちに気づいたり、

私自身、発したりできてなかったんだろうな。



いや、今だって出来てるとは言いません。

まだまだ発展途上です。



あ、話がそれた・・・戻そう。


状況や思いのすべて言葉にするなんて無理だし、

うまく表現だってできない。

伝えられるのは一部だったり、真意を伝えきれないことだってある。

言葉は嘘や限界ばかりかもしれないし、空虚な言葉を駆使することもあるし、

時に語弊が生じたりもする。


けど、相手のこと考えて、発した言葉はきちんと響くし、

「あ、嘘がない」って不思議なくらい心にすとんと落ちるものだと思う。

言葉にすることで、「改めて」どころか「初めて」伝わることだってあると思う。

大事って思う人に対して、大事な場面で、

その人を思い、言葉を発せる人でありたい。



そして今日私が放った言葉、

心にすっと入ってくれてたらいーなー