意見陳述書

平成27年◯月◯日
        被害者の母   
1.樹◯について         
(1) 樹◯は、1999年8月3日 0時1分、◯◯家の第一子として誕生しました。
初めて樹◯を抱いた時、やっと自分も世の中に貢献できたような、うまく言えませんが、今までに味わったことのない、大きな喜びを感じました。
この子を、自分の命に代えても守っていきたいと思いました。
私にとって、はじめて自分よりも大切に思える存在が樹◯でした。
それからは、樹◯中心の生活となり、樹◯の成長が私たち夫婦の生きがいでした。

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(2) 幼少期から沢山の本を読み聞かせました。また、興味をもったことには、とことん付き合いました。まず、最初に興味を持ったのは車でした。まだ話せない樹◯は「はたらくくるま」という本を持ってきて、私に何の車かと指で聞いてきます。「パトカー」「コンクリートミキサー車」「清掃車」と答えます。一日に何度も聞いてきますが、何度でも答えました。ある日、私が「パトカーはどれですか?」と逆に質問をしました。すると樹◯は、パトカーを指します。驚いた私は、次から次に質問しましたが、本に載っていたすべての車を覚えていました。まだ、字の読めない頃には「すてきな三人組」という絵本が大好きでした。何度も読んでとせがまれます。何度でも読んであげました。ある日、まだ字が読めないのに、私に向かってページをめくりながら、1冊すべて暗唱してくれました。一語一句間違えず、私の読み方をそっくり真似ていました。 
子供って、なんて素晴らしいのだろうと、無限の可能性を感じました。
(3) 2005年、主人の転勤で香港へ移住しました。樹◯が5歳、下の娘たちは2歳と、生後4ヶ月でした。 
主人は、着任後すぐに中国勤務となり、香港の自宅に帰れるのは、週末だけという生活になりました。私は英語が堪能ではありません。慣れない環境で3人の幼い子供達を守っていかなければならず、日本で子育てする以上に、衛生面、健康管理に気を配り、交通ルールも厳しくしつけました。
(4) 4年間の海外生活を終え、樹◯が小学校四年生で帰国。
はじめての日本の小学校生活は、給食、清掃、徒歩通学等、樹◯にとっては未経験のことが多く、戸惑ったようです。帰国後、一番苦労したのは、自転車でした。街が人で溢れかえり、歩道を真っ直ぐ歩くことすらできない香港では、一般市民が自転車に乗ることは禁止されていました。日本では子供が自転車に乗れるのがあたりまえ。幼稚園児が補助なし自転車に乗っている姿を見て「すごい!」と焦りながら苦笑いしていた姿が印象に残ります。子供ながらに、環境の変化に苦労も多かったと思いますが、愚痴など聞いたことはありませんでした。 
(5) 帰国後も、サッカーチームに入り、スイミングスクールやゼミにも通いました。将来は尊敬する父のように、海外で仕事をしたいと、英語の勉強も自ら行っていました。何事もこつこつと努力する子でしたので、中学一年生で英語検定3級を取得し、水泳は泳力認定1級。中学二年生の東◯大会では、100メートル自由形4位の記録を残しております。
(6) 明るく、人の悪口を言わない優しい子でしたので、友達にも慕われました。中学一年生終わりのクラスアンケートでは、将来ギネスブックにのりそうな人、1位に選ばれ「嬉しいです。絶対のってやる!」と、コメントしています。歴史に名を残しそうな人、3位にも選ばれていました。 
葬儀には多くの友達が足を運んでくださり、交友関係の広さに驚きました。
今でも自宅や事故現場を訪ねてくれますし、電車やバスを乗り継ぎ3時間もかけて、お墓参りに来てくれた友達もいます。樹◯の分も樹◯の好きだったベースギターを頑張る。悲しい事故を減らすために警察官になりたい等、樹◯の死をきっかけに、目標を見付け、樹◯の分もしっかりと生きていきたいと、メッセージを残してくれた友達もいます。彼らの優しさにとても支えられています。本当に有難い限りです。
(7) 樹◯は正直で、言い訳をしない子でした。クラスでトラブルがあり、問題のあった生徒達が先生に呼び出された時、自分の名前があがっていなくても、「僕もしました」と、名乗り出ました。
家庭内でルールを守らなかった時、文句一つ言わず、罰を受け入れます。
もっと言い訳すればいいのにと、時に歯がゆく思うほどです。そんな樹◯が、今どのような気持で、天国から見ているでしょうか?
おそらく、自分を保守することばかりの被告人に呆れ、軽蔑していることでしょう。
(8) 樹◯は、努力家でした。
4月から入学予定だった、県内トップレベルと言える◯◯◯高校理数科は、1クラスしかありません。36人が前期選抜の自己推薦入試(面接)で決まり、後期選抜の一般入試では、合格枠わずか4人です。樹◯は「せっかく勉強しているから、試験で合格したい」と、あえて後期選抜を選びました。プレッシャーを跳ね除ける様に、毎日ゼミに通っていました。志望校合格を決め「すごいね!おめでとう!」と、声を掛けると「合格できると思っていたよ」と、照れ笑いしていました。
一つ目標を達成し、更にやる気を出し、卒業後も休むことなく、高校入学に備え
ゼミに通っておりました。 
(9)  樹◯が最期に持っていたリュックサックの中から「高校入学後の抱負」という作文が出てきました。これは、3月20日に届いた、高校の合格通知と共に同封されていた課題の一つです。事故の起きた23日には、ほとんどの課題を終わらせていました。樹◯が、いかに入学を心待ちにしていたか、また、作文からは、どのような考えを持っていた子だったかが、お分かりいただけると思います。
ごく普通に、夢や希望のあった15歳の樹◯は、ルールを守らない大人により、すべてを奪われました。
真面目に努力していた姿を知っているだけに、悔しくてなりません。

2.事故
(1) 3月23日、午後10時頃、被告人は、◯◯◯で仲間と飲酒後、二次会のプ◯◯ボールへ車を走らせました。アルコールを摂取しているにもかかわらず、時速70km以上で前を見ないで走行。センターラインをオーバーし、ブレーキを掛けずに横断歩道上の樹◯を、約45m先まで跳ね飛ばしました。その後も急ブレーキは踏んでおらず、車を停車させたのは、事故現場から約100mも先です。このような運転は通常では考えられず、アルコールが影響したと考えるのが自然です。
もしくは、急ブレーキを踏まなかったのは、歩行者の横断に気づいていながら、煽り運転をしたのではないかとすら疑います。被告人は「たとえ時速50km位でもノーブレーキで人を撥ねれば命にかかわる」という知識がありながら、住宅街で乱暴な運転をしたのです。これを過失犯と呼べるのか、危険運転ではないのかと、疑問でなりません。
(2) 被告人の速度は、衝突地点から転倒地点までの飛翔距離が44.6mであることから、時速約76kmと推定されています。しかし、樹◯の転倒地点の近くに、高さ1.2mの金網フェンスがあるのですが、これは私達家族が住んでいるマンションのフェンスで、事故直後から、とても歪んでいます。フェンスの歪みは、甲2号証の写真第20号でも確認できます。樹◯の赤色のリュックサックは、フェンスを越えた場所に落ちていました。また、仮に、樹◯が、衝突地点から転倒地点まで一直線に飛ばされたと考えますと、歩道上にある木に衝突して、転倒地点では転倒しないように思います。つまり、樹◯は、衝突地点から飛ばされて、まず、フェンスに衝突し、フェンスが歪み、樹◯の赤色のリュックサックが、フェンスを越えた場所に落ち、そして、樹◯は、フェンスに衝突した後、転倒地点に転倒した可能性が高いと思います。樹◯がフェンスに衝突しますと、樹◯が跳ね飛ばされる力は相当弱まると思いますし、フェンスがとても歪んでいますので、樹◯は相当な勢いでフェンスに衝突した可能性が高く、樹◯がフェンスに衝突しなければ、樹◯の飛翔距離は44.6m以上であった可能性が高いと思います。そうすると、被告人の速度は、時速約76㎞と推定されるのではなく、被告人は、もっとスピードを出して運転していたと鑑定されたと思いますし、真実はそうだったと確信しています。
(3) 被告人の事故後の行動は、悪質であり、救護より飲酒を隠蔽することを優先しました。事故現場に戻り、樹◯を探した時間は、わずか2分程度。探したというより、人を轢いたか確認したという方が正しいでしょう。樹◯を見つけることなく、救急、警察にも通報せず、飲酒を隠すため、セブ◯◯◯ブンでブ◯◯ケアを購入し、一気に半分ほど口に含みました。その後、検査時のアルコール値は0.1mgでした。店を出てから50分後、事故から30分後の検査です。果たして、正しい数値といえるのでしょうか?また、事故車両レクサスの車内の写真から、お茶を飲んでいたことも明らかです。(写真第26号・第29号)インターネットでは、飲酒運転の常習者が、ブ◯◯ケアを大量に食べて検問をクリアしたという情報が多く出ております。被告人も友人の調書から、飲酒の常習性が認められ、そういった情報を知っていての行動でしょう。これは、アルコール等影響発覚免脱罪に相当しないのでしょうか?
(4) その間、樹◯は全身に重篤な怪我を負わされ、誰にも見付けてもらえず、寒空の中倒れていたのです。冷たいアスファルトの上に放置され、たった一人。飛ばされた勢いで足は素足、ズボンは膝まで落ち、酔っ払いに間違われました。樹◯は塾からの帰宅途中で、事故現場は自宅から数十メートル、目の前の道路です。幼い頃から教えられた通に、横断歩道を渡っていたのに、あまりにも悲惨すぎます。樹◯の無念は計り知れません。
(5) 外に出ると、横断歩道上には見慣れた靴、道路には破片が散乱し、変わり果てた樹◯の姿。悪夢のようでした。震えながら救急車に電話し、一刻も早く到着し、樹◯を助けて欲しいと願いました。しかし、被告人が通報義務を怠った為、救急車が到着したのは、事故から20分以上経ってからです。これでは息があっても助かりません。自ら消防や警察に通報していないのは飲酒していたため時間を稼ぎたかったのでしょう。樹◯を懸命に探す気など最初からなかったと思われ、ひき逃げ同等の行為だと思います。単に現場にとどまったのも、フロントガラスが割れて前が見えず、走行不可能だったからではないかと思えてなりません。
(6) 被告人は樹◯を発見後、人工呼吸をしたと言っていますが、樹◯は嘔吐物が詰まっていました。気道の確保もせず、人工呼吸などされたら、窒息死します。本当に命を大切に思うなら、救急に電話しながら指示を受けるのが普通です。誰かが「脈がある」と、言ったそうです。わずかな望みさえ、被告人に断ち切られ、息の根も止めたれた、二度殺された気分です。 
大切な、尊い命を粗末に扱ったことを許すことができません。
(7)  やっと到着した救急車に樹◯が乗せられる時、まるで命のともし火が、消えゆくことを暗示するかの様に、悲しげに小雪が舞いました。樹◯の涙の様にも感じました。帰宅したら夜食を食べさせ、部屋を片付ける約束をしていました。翌日には散髪しようと話していました。道路を渡れば家だったのに、二度と帰らぬ人となり、伸びた髪は病院でハサミを借りて整えてやりました。15年間、私が髪を切っていました。それが最期の散髪となり、もう触れることすらできないのです。

3.被告人について
(1)  被告人とは、事故現場で顔を合わせており、私が母親だということは誰の目から見ても分かったはずですが、その場では一言の謝罪もありませんでした。被告人の妻は事故の夜、搬送先の病院に「連絡が欲しい」と伝言を残していきました。事故の翌日、樹◯の通夜が終わった後に、被告人の妻と一度だけ電話で話しをしました。私は事故と直接関係のない妻に対し、責めるつもりも、謝罪を求めるつもりもありませんでした。「告別式に行きたい」と言われましたが、お断りしました。事故についてよくわからない状態ですし、突然の事で樹◯をしっかりと送り出すだけで精一杯でした。私は「正直にすべて話して欲しい」とだけお願いしました。しかし、その気持は伝わらなかったようです。こちらの気持も考えず、突然自宅に押しかけられました。仕方なく主人は、花だけ受け取り帰ってもらったと言っていましたが、樹◯の霊前にその花を手向ける気持にはなれませんでした。
(2) 被告人からは2度程手紙を受け取りましたが、手本を書き写したような謝罪文と、自分に不都合なことは省かれ、誤った判断さえ正当化された内容に、怒りがこみ上げました。そもそも謝罪とは、自分の今までの行いを振り返り、過ちを認め、すべてを正直に話した上で行うものであり、ただ事故現場に花を手向けたい、謝りたいと言われても、それは被告人の自己満足に過ぎず、私たちには何も伝わりません。
(3) 被告人の勤務先、株式会社◯◯について、謄本を取りますと、樹◯の告別式の行われた3月25日付けで、被告人は取締役を辞任となっておりました。
事前に告別式の参列はお断りしていましたが、被告人の妻と母親が来ました。しかし、本来なら一番来るべき社長である父親の姿は、ありませんでした。要するに私たちへの謝罪より、会社の事務手続きを優先したというわけです。 事故のあった3月23日の時点では、被告人は株式会社◯◯の取締役だったにもかかわらず、父親は調書で「役員ではない」と話しております。
また、被告人の妻についても、調書ではパート勤務とありますが、実際には監査役で、株式会社◯◯の役員です。
(4)  四十九日の謝罪の申し入れを断ると、事故現場の道路、更には自宅マンション裏の普段大型車が通らない道を、被告人の父親が経営する「株式会社◯◯」のトラックが2台連なって、一日に何度も走るようになりました。周辺住民も「何故こんな道にトラックが?」と驚いていましたが、私は謝罪を断った嫌がらせだと思いました。悪気がなかったとしても、配慮が足りないのではないでしょうか?  
担当の警察官に話したところ、その二日後からトラックを見なくなりました。また、事故車両レクサスは会社名義ですが、元は亡くなられた暴力団関係者から借金の形にとった車です。いったいどういった体質の会社なのでしょうか。必要以上に関わりたくないと思いました。
(5) 事故後、被告人は弁護士を二人つけたと聞きました。自分の軽率な行動で、罪のない人の命を奪いながら、刑に服す気持はないのか、どれだけ自分を守りたいのかと呆れました。調書からも自分に不都合と思われる、飲酒の常習性について、目撃証言があるにもかかわらず認めておりませんし、反省しているとは思えません。 被告人を取り巻く環境というのは、自分達を保守するために隠蔽する体質があり、今後、被告人が更生されるような場ではないと強く感じます。  
そのような環境に居たからこそ、今回の事故につながったのだと思います。  
(6) 被告人からの手紙に「私にも二人の子供がおります」と、ありました。
子供の手本になれないような、良し悪しの判断も出来ない人に、同じ親だと言われたくありません。あなたは自分の子どもに「悪いことをしても、バレなければ大丈夫」と教育するのですか?今回の事故の直接の原因は「前方不注視」かもしれませんが、飲酒や速度超過といった運転にまつわる事だけではなく、根本は被告人自身のもっと深いところにあると思います。少なくとも被告人に親であることの自覚があったのであれば、子どもに恥じるような間違った行動はできなかったはずです。 被告人には、長期間刑務所に入りしっかり更生していただきたいです。

4.遺族の苦しみ
(1) 事故から4ヶ月が過ぎましたが、涙を流さずに過ごせた日は一日もありません。
季節は変わっても、心は事故の日に置き去りになったまま、日が経つにつれ「何故樹◯ は居ないのか」と、悲しみは増していきます。
外を走る車の音が耳につき、眠れません。何故、事故の音に気づいていながら、すぐに外に出なかったのか、自分の命に代えても守りたいと思っていた樹◯に、何もできなかったと、後悔と虚しさで辛い毎日です。この苦しみは自分の命のある限り続くのです。主人と二人「親としての責任が残っている間は、生きなければ」と、互いを励ましあいながら、過ごしています。
(2) 娘たちは、大好きだった兄に、せめて夢で会いたいと、眠る前に仏壇に手を合わせ、祈っています。 
樹◯は、長女の夢で「何で俺が死ななきゃならないんだ!」と怒っていたそうです。 次女の夢では「親より先に死んでしまい、ごめんなさい」と泣いていたそうです。
いったい被告人には、どんな権利があり、私たちの大切な家族を、樹◯の未来を奪ったのでしょうか。樹◯を返して欲しいです。
(3) 樹◯の死亡事故のニュースは、市内の小中学校保護者宛にメールで一斉送信されたと聞きました。多くの友人や保護者の方々が胸を痛めて下さり、事故現場では、近隣住民の方から、沢山の励ましのお言葉をいただいております。しかし、その一方で、報道では事故の詳細が明らかにされなかった為、色々な噂が飛び、インターネット上では、「塾ではなく夜遊びしていた」等と、樹◯を侮辱するような噂が出ているのも事実です。いったい、私たちは何度傷つけられるのでしょう。やりきれない気持になりましたが、それだけ世間の関心が高いということです。
(4) 悪質な死亡事故にもかかわらず、被告人に出た行政処分は、たった一年間の面許取り消しと聞き、驚きました。私たちの失ったものは戻らないのですから、被告人には一生車を運転して欲しくありません。
過去の刑事処分では、たとえ死亡事故であっても、過失犯という理由で執行猶予判決が多いと知りました。果たして過去の判例は現在の参考になるのでしょうか? 同じ人間が存在しないように、同じ事故はないはずです。
最近では、飲酒による死亡事故に対し、厳罰を求める声が高まっています。近い将来、ハンドルを握る子供達も、判決に注目しているはずです。ルール違反をすれば厳しく罰せられるという、強い姿勢を示していただきたいと願います。

5.裁判官へ
法律に素人の私から見れば、被告人は、危険運転、通報義務違反、救護義務違反、アルコール等影響発覚免脱罪、すべてが当てはまるように思います。検察には訴因変更をお願いいたしましたが、残念ながら叶いませんでした。私たちは、一生樹◯に会えないのですから、被告人には、無期刑をお願いしたい気持です。しかし、それが無理だというのであれば、起訴された罪で最も重い実刑7年を、何も言えない樹◯に代わり、どうか宜しくお願いいたします。実質無罪のような執行猶予判決や、2、3年の軽い実刑判決で、これ以上、樹◯を、私たち家族を苦しめないで下さい。            以上