意見陳述書
 平成27年◯月◯日

         被害者の父   
                
1.事故当日について
(1)事故当日3月23日の夜、春が近づいているはずなのにとても寒い夜でした。午後10時過ぎ自室でくつろいでいると、妻が「樹◯が塾から帰ってくるのが遅い、近くで車同士の事故があったみたい」と話しかけてきました。樹◯が家に戻っていないので、何かとてもいやな感じがして、確認のため外に飛び出しました。まっすぐ家のそばにある横断歩道に向かったのですが、目に飛び込んできたのは横断歩道上に放り出された2足の運動靴でした。樹◯の靴であることはすぐに分かりました。もともとそれは私のランニング用として愛用していた靴で、樹◯にあげたものだったからです。
(2)放り出された靴を見た瞬間に受けた衝撃、絶望感が分かりますでしょうか?あの時の衝撃を私は一生忘れることは無いでしょう。後ろを振り返ると人が集まっている場所があり、そこに駆け寄りました。横断報道から4,50メートルも離れた自宅マンションのゴミ集積所前に、樹◯がありえない姿で倒れていました。ひどい怪我を負っていることは一目瞭然でした。「これはもう駄目かもしれない」という思いと「何とか死なないでくれ」という思いが頭の中を交錯しました。樹◯は倒れたままピクリとも動きませんし、問いかけに反応することもありませんでした。樹◯がすでに死に近い状態にあるということは本能的に分かりました。ところが、頭の中ではその考えを拒否して認めようとしないのです。私はパニック状態の中で、樹◯に向って叫び続けました「ミッキー、目を開けろ、死ぬな、お願いだから死なないでくれ」。
(3)偶然、近隣の医師2人が現場に駆けつけ救命作業をしてくれましたが、やはり反応はありません。なぜか現場に救急車がなかなか到着せず、焦燥感が増していく中で「なぜ救急車がすぐ来ないんだ、樹◯を一刻も早く病院に連れて行かなくては、何が何でも命だけは助けるんだ、死なせるものか」という事のみを考えていたことを覚えています。
(4)事故推定時刻10時7分に対し、救急車が現場に到着したのは事故発生から20分以上も経過した10時30分でした。樹◯と二人で乗り込み、車内の明るい光の中で樹◯を見ると、ひどい怪我を負っていると再認識せざるを得ませんでした。樹◯は丈夫な子で、部活で水泳をしていたこともあり頑丈な体をしていました。その体が汚物で汚れ、衣服は乱れ、ぼろ雑巾のようになり救急車に横たわっています。
(5)病院に到着すると待機してくれていた医者と樹◯は医務室に直行し、私は隣の控え室に通され、そこで待たされました。「ミッキー、死なないでくれ、寒かっただろう、痛かっただろう、どうしてこんなことになったんだ、後もうちょっとで家だったじゃないか?」そのような思いが頭を駆け巡り、心の中で樹◯が死なないことのみを必死に祈り続けました。
(6)しかし数10分後、思いも通じず医者から樹◯の死を告げられました。医務室の中に入り、樹◯の状態、傍らにある心拍数を測定する測定機が動いていないことを確認しました。そのとき初めて涙が出てきました。
「何故樹◯がこんな目にあわなくちゃいけないんだ」
(7)新聞等の報道では樹◯の死因は多発性外傷となっていますが、被告人は内容を知っていますか?脳挫傷、緊張性気胸、頚椎脱臼、右腕開放骨折、心破裂、右肋骨骨折、右側骨盤骨折、右頬骨骨折、右腰椎骨折、右後頭部に切創が認められた、と診断書に書いてありました。重篤で致命傷となり得る外傷が複数あったとのことです。大切に大切に育ててきた樹◯をよくもこんな目にあわせてくれたな、樹◯を返してくれ! と叫びたいです。
(8)死亡確認、警察による検死確認が終わった深夜、樹◯の亡骸は葬儀社に移されました。私は朝まで一睡もせず樹◯と2人きりで過ごしました。泣いても泣いても涙が止まりません。それと樹◯の亡骸を見て誓いました。「事故の真相を必ず明らかにして見せる。樹◯をこんな目に合わせた被告人を許すわけにはいかない」と。
2.樹◯について
(1)樹◯は1999年8月3日生まれ、◯◯家で初めて授かった子として大切に育ててきました。強くたくましく生きるようにと妻と二人で考え抜いてつけた名前でした。そして2015年3月23日に亡くなりました。
(2)幼稚園児の頃から親の仕事の都合で◯◯=>香港=>◯◯と振り回してしまいましたが、環境の変化を受け入れ、とても素直で優しい、正義心が強い子に育ってくれました。香港から◯◯に戻ってきたのは樹◯が小学校4年に上がるときです。
(3)香港時代から英語、塾に通わせ、勉強を習慣づけるようにしていましたが、親の私から見ても非常に頑張っていました。運動では空手、アクアスロン、サッカー、水泳 と自分のしたいスポーツを習い、あるいは部活に入り、小学から中学時代を満喫していました。帰国当初、環境の変化や日本の生活に溶け込めるかどうかを心配していたのですが、良い先生、友人に恵まれその心配は杞憂に終わりました。趣味では邦楽洋楽問わず音楽が大好きで、洋楽を聞き込んだためか、英語は私より遥かに出来ていたようです。
(4)今春、◯◯◯高校の理数科に後期受験で合格しました。
◯◯◯高校は◯◯界隈では優秀な進学校です。特に理数科は難易度が高く後期合格枠はわずかに4人です。親は合格枠が少ないことを心配して、他の高校受験を進めたりもしましたが、将来の夢や希望、勉強、友人のこと等を熟慮し、自ら決めた進路でした。自分の意思で夜遅くまで塾に通い、目標設定をし、勉強のカリキュラムを組んで頑張っていました。親に迷惑をかけるからと塾への送迎を断り、どんな悪天候でも、愛用の赤いリュックをしょって、黙々と塾に通っていました。今回の事故も、塾で高校での先取り講座を受講した後の帰宅途中で起きた事故でした。
(5)樹◯から勉強のこと、塾のこと、あるいは学校生活のことについて愚痴一つ聞いたことはありません。自立志向の高い、信念の強い努力家でした。そうした努力が報われ、3月下旬、ようやく合格を掴み取ることが出来ました。合格のことを報告してもらった時に樹◯が見せた笑顔、最高でした。久しぶりに心からの笑顔を見せてくれました。4月からどんなに楽しい高校生活を始めることが出来るのかと未来に思いを馳せていたことと思われます。
(6)家の中では母、妹思いで、みんなから頼りにされ慕われている良いお兄さんでした。上の娘の中学への進学、ゼミでの状況を心配して「ミッキーが勉強を教えてあげる。」 と自ら言ってくれた事、下の娘にせがまれると疲れていてもトランプやカルタなどでいつも一緒に遊んでくれたこと、塾の合間を縫っては母親の代わりに夕食後のお皿洗いを自分の仕事として手伝ってくれたこと、たまに私がご飯を作ると信じられないくらい何人前も「うまいうまい」と平らげてくれたこと、樹◯との一つ一つの思い出、我々家族は決して忘れません。
(7)事故の前日、樹◯から高校の合格祝いにラーメンを食べに連れて行って とせがまれました。樹◯と私はこれまでも何度か父子二人きりで外食に行き、その時に息子と二人きりで話し合う機会を私自身、非常に楽しみにしておりました。
(8)ラーメンを食べながら、樹◯から高校生になったら高校2年までに全科目の履修を終了させ大学受験したいこと、大学では一人暮らししたいこと、友人とバンドを組みたいこと、音楽の趣味にかけるお金をバイトして稼ぎたいこと 等いろいろ話を聞きました。
(9)生まれた当時は体が小さくて心配していたこともあったのですが、小学、中学と運動を続けていたこともあり、頼もしく成長していました。樹◯の希望に満ちた話、今後の抱負を聞いているうちに、子供はこうやって親の手を離れて独り立ちしていくんだ、大人になっていくのだなと感慨すら覚えたことを記憶しています。本当に楽しい食事でしたが、これが樹◯との最後の食事となってしまいました。
(10)15歳という若さで人生を終えなければならなかった樹◯の無念、希望を抱き充実した日々を送っていた樹◯の人生が、突然奪われてしまう理不尽さ、こんなに悲しいことはありません。我々家族の幸せが被告人の自己本位の運転により、一瞬にして奪われてしまったのです。
樹◯が戻ってくることはありえないのですが、残された我々家族は自分たちを責め、なぜ樹◯を守ることができなかったのか?と毎日自問自答しています。3月23日の夜から我々の心の一部は死んだままです。難しい年頃なのに何故か、父親の私にもなついてくれていました。思い出されるのは良い思い出だけです。
(11)これまでずっと私は我々両親が樹◯を幸せにしてあげるという考えを持っていました。しかし樹◯がいなくなり、大きな勘違いしていたことに気付きました。本当は樹◯が我々に力を与えてくれ、幸せにしてくれていたのです。樹◯、今頃一番大事な点に気付いたパパを許してほしい。

ミッキー、何がしたかった? 何をやり残した?? 

3.被告人について
(1)今回の事故は偶然、不運が積み重なって起きたものでしょうか?
被告人はこれまで飲酒運転をしたことがないと言えますか?
これまで繰り返し大幅な速度超過や乱暴な運転をしていませんか?
これまで警察沙汰になっていない事故を何度か起こしていませんか?
(2)葬儀当日他、奥様と少しお話しした際、その中で我々が望んだことはただ一つ、真実を話して事件の全容を明らかにしてほしいと言うことでした。
被告人からは拘置中、樹◯の四十九日近くの2回、手紙を受け取っています。
内容は自分の取った行為の正当化の主張ばかりで、事故後に飲酒を隠匿するために取った行動のことなどは一言も触れられていませんでした。調書を取り寄せこの事実を知ったとき、激しい憤りを感じました。自分の取った行動の不都合な部分は隠し、うわべばかりの謝罪を書き連ねる被告人を私は決して許せません。それ以降被告人が心からの謝罪をすることはないと感じ、全ての接触を断っています。
(4)被告人が事故後に取った行動、主張を調書から抜き出し列挙しますと、
*救急車の手配を自分ではしない
*事故後樹◯を発見するまでの間、ブ◯◯ケアをコンビニにて購入、使用しアルコール摂取の証拠隠滅を図る
*飲酒の常習性を否定している
*事故直後の本人供述では飲んでいた場所等虚偽の報告をしている
被告人の事故後に取った行動はひき逃げ以上の悪質性を感じますが、そのように感じる私が間違っているのでしょうか?
もしあなたが同様の立場に立たされ、謝罪を受けた後、実際に取った行動は自己保身が最優先で謝罪内容とかけ離れていたとしたら、相手を許すことが出来ますか?
(5)手紙の中で被告人は樹◯に人工呼吸、心臓マッサージをして懸命に救命活動をしたと主張しています。しかし実際は跳ね飛ばされた樹◯を探す行動を最優先にせず、救命活動前に酒気帯びを隠すために、コンビニでブ◯◯ケアを購入し、大量のブ◯◯ケアをかみ砕いています。また樹◯を発見してからも救急車を呼んでいません。大量のブ◯◯ケアを摂取した後に形ばかりの人工呼吸、あまりにも樹◯を冒涜した行為ではないでしょうか?樹◯がかわいそう過ぎます。
(6)飲酒運転の常習性も、友人◯◯さんの調書から読み取れるよう明白ですし、我々も個人的に知り合いに当たって同様の話を何度も聞いています。ところが被告人は調書の中で、過去に飲酒運転の事実は一切ないと言っています。反省の色は見えず情状酌量の余地はないのではないでしょうか?
(7)被告人は◯◯という会社の取締役かつ運行管理者という要職についています。取締役、運行管理者であることはなぜか全く報道されませんでしたが、取締役とは会社の業務執行権限を有している会社の代表、運行管理者というのは、社内の部下の運転状況を把握し指導する立場にあると思われます。取締役かつ運行管理者が飲酒運転常習であり、今回の事故を引き起こしたと言うことは、社会人としての責任意識も全くないと言ってよいと思います。
(8)樹◯は横断歩道の真ん中を過ぎた場所ではねられています。飲酒の影響で気が大きくなっているため道路状況から目を離し加速し過ぎ、はみ出し走行がなされ、衝突前後も瞬時にブレーキが踏めなかったと考えざるを得ません。被告人があと少しスピードを落としていれば、ブレーキを踏んでいれば、対向車線へのはみ出しがなければ、そもそも飲酒運転などなぜしたんだ と考えない日は一日もありません。
(9)樹◯が亡くなった後の家庭の雰囲気は一変しました。事故以来妻は仕事を続けられる状態でなくなり、パートをやめ、残された2人の子供の面倒を見ることに専念しています。泣き顔はいつも見ていますが、心の底から笑っていることを見たことはありません。娘たちも同様です。その中で皆、何とか気丈に振舞おうとしていますが、その姿は痛ましい限りです。
最愛の息子、兄を奪われた悲しみ、被告人に対する怒りが分かるでしょうか?
事故に至るまでの状況、明らかになっているだけでも事故後の被告人の取った行動を私は許すことが出来ません。
4.処分について
(1)裁判官へのお願いです。日本の司法は我々被害者の家族の訴えをどこまで汲んでいただけるのでしょうか?
(2)昨今北海道の小樽、砂川の飲酒後の暴走による事故を筆頭に、交通事故の痛ましいニュースを良く耳にします。一部の加害者関係を除き被害者、世論は加害者に課される刑罰の軽さに非常に疑問を持っています。交通事故で相手方を死亡させたら、刑務所に入らなければならないというのは、世間の常識のように思います。遺族の立場からしますと、執行猶予などは絶対に受け入れることはできません。
(3)加害者の権利は過剰に保護されるのに、被害者の権利はどうなっているのでしょうか?「死人に口無し」状態で被告人の主張のみが証拠として扱われるのはおかしくないでしょうか?
(4)今回の事故については、飲酒運転、事故後の隠蔽工作などが明らかであるので、危険運転致死や発覚免脱罪での起訴を、検察官に何度も強く求めました。しかし、本件では難しいと言われました。残念でなりません。
(5)わずか15年しか生きることのできなかった樹◯の無念さを思い、残された我々の気持ちとして、加害者に対し樹生を飲酒運転でひき殺した事実をしっかり認識させ法律の許す限りの厳罪を求めます。
我々家族の思いとしては樹◯と同じ苦しみを相手に与えてやりたい、極刑を望みたいくらいです。それが無理ということであれば、一生刑務所に入って、償ってほしいです。数年刑務所に入っているだけなど絶対納得できません。以上

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