「ケ・サラ」の父        平成30年2月6日

 

 「死んでいても不思議ではない。」
 「肺に水が溜まり、低血圧、低体温、意識不明、呼吸不全。
      ここでは直すことが出来ない」 ・・・医者はそう言った。

 「お父さんは、たとえ復活したとしても、自分の置かれている状況が認知
 できる力はなく、 自分で延命を望んだり、もう治療は必要ないとは言えない。」
 「自然に寿命を全うできたらよい」 私は咄嗟に返答をしていた。
 「出来るだけのことはする。」と医者は言うが、それからどうするのか。
 私が父の運命を決めた瞬間だった。

 

 それからずっと病院のベッドで酸素吸入と点滴を受けた。
 酸素マスクから一生懸命に酸素を吸う姿は見ていられなかった。
 力尽きてしまうことは時間の問題だったのだろう。
 医者は、これからどうなるか、どうなってしまうのかということは知って
 いたのだろう。
 毎日の病院通いが続き、父の横たわるベッドの脇で、私の頭の中では
「ケ・サラ」の 曲が流れていた。
「ケ・サラ」と父の風貌は、ずいぶんかけ離れていたのだが。
 父に繋がれたモニター心電図の波形と数値を見詰めながら、為す術もなく、
 ただ「どうなるだろう」 「どうなってしまうのだろう」という想いだけが
 頭の中を駆け巡っていた。

 

 一週間が経ち、医者は私を呼んだ。
 「心臓の拍動を補う点滴を外すが、よいか。」
 たぶんそれは、確実に死に向かっていくことを意味していた。
 そういうことを了解してほしいということなのだろう。

 意識は戻ることはなかった。
 『嘘をつくな。弱い者の味方になれ。』

 父が口癖のように言っていた言葉を思い出していた。

 

イメージ 1 [天国のようだった花園]

 

 入院から14日が過ぎた。病院から緊急の呼び出しがかかった。
 死の一歩手前だった。脈動だけはあった。
 当直の医師が来て死亡診断がなされた。
 瞳孔反応がなくなり、心拍波形も一本の筋になって止まった。
 死亡が宣告された。

 父の手は暖かかった。
 いつか、山の上の土産物屋のおばあさんと出会い、手を握った時と
 同じ感覚だった。

 

 そう、明日はどうなることやら。
 誰もわかりはしないだろう。誰にも。
 私たちの人生というものは 長い山道を手さぐりで歩いていくようなもので、
 誰も死んだことのない今日を、今生きていくだけなのだろう。
 涙も今日の今を流れている。
 
 明日の涙は、また違ったものになっていることだろう。
 生きてさえいればいいのさ。
 そして、生きていることが不思議なことのように想えた。
 凍えるように寒い朝だった。

 

    「下ノ畑」のこと                2018 .1 .30

 

大正十五年といえば、私の父が生まれた年になる。
賢治は教員として勤めていた花巻農学校を退職し、早池峰山を望む北上川の畔、花巻の
下根子桜という所で農作業と自炊生活の傍ら、近隣の農民に農業技術の指導や農民芸術
を教えるため、この地にユートピアの学園を開いた。
これが羅須地人協会(らすちじんきょうかい)である。

 

 

羅須地人という言葉も何やら秘密めいた賢治の言葉のように思える。
"羅須"とは、『ラス(LATH)”塗り壁下地に使う金属性の網”のことで、土が壁に塗り固め
られるように、
地域の農民たちが団結して力を合わせること』と伝えられる。羅須地人協会メンバー 
伊藤克己さんの説明より

 

 

イメージ 1  [リヤカーをひく賢治]
『宮沢賢治の五十二箇月』佐藤成著

 

 

羅須とは、土地の人と一体となり、地域社会に根ざしたコミュニティを理想とした意味を
こめて名づけたのだろう。私は、そのような意味合いに捉えている。
その時、賢治はいつものように、花巻の森の中にある荒れ地の開墾に出掛けていた
のであろう。
革靴を履きスラックスにジャケットを羽織り、農民らしからぬハイカラな帽子を被り、
リヤカーをひいて。

 

 

近所の国民学校の生徒子供らに童話を読み聞かせ、一方、農作業の傍ら農民には
肥料相談を行い、オルガン、チェロの練習やレコードコンサート、エスペラント語の
学習もしていた。
いつものように近所の子供や生徒が集まってきたのであろう。でも、先生は留守だった。

 

 

イメージ 2 [集会所の入り口の黒板]

 

 

その集会所の入り口の黒板に「下ノ畑ニ居リマス 賢治」という言葉が残されていた。
当時、塾生であった人が回想録の中で述べている事が残された言葉の手掛かりとなる。
「・・先生は畑に行って家は留守にしているが、おやつはそこに置いてあるよという
やさしい心ずかいの意がかくされてあったのです。
私たちは学校の帰り先生の家を訪ねては、おやつ捜しに入り、それをかってに取り出しては
食べて帰るというのがなんとも楽しくて、あんな遠い所までしばしばまわり道をして行った
ものでした。せんせいはそのような気くばりようをされましたし、そこまで考えて戴いたことに
非常に有り難さを覚えています。
 (柳原 昌悦) 」 佐藤成著『宮沢賢治の五十二箇月』より

 

 

さて、私の場合は、ブログの表題に「下ノ畑ニ居リマス」と書き残していた。
あれから、どれくらいの月日が流れたことだろう。
《ブログの更新は、ちょっと待っていてください。「下ノ畑ニ居リマス」から、もうすぐ参ります。》
という意味のつもりだった。
「下ノ畑」とは、プランターだったということで笑われてしまった。
そして、月日が経ち、腰痛からきた痺れが悪化して、とうとう、椅子に十分と座って
いられなくなってしまったのでした。

 

    日光白根山          2013.10.14

   丸沼高原ロープウェイ--- 七色平分岐--- 白根山頂 ---
   避難小屋 ---五色沼---弥陀が池---ロープウェイ頂上

 

 雪で峰々が純白になる山姿は神々しい。心洗われる神の山を称して白根山と呼ぶ。
白根山という山は日本各地にあって、他の同名の白根山と区別するために
山の名の頭に日光、草津などとその土地の名をかぶせている。
日光にも白根山があって、通称を奥白根という。

 

奥白根は、心洗われる神の山であるが、なかなかその山姿を山中から望見する
ことはなかった。標高2578mの特異な山容を初めて見たのは、上州武尊山の
山中からであった。
武尊山の中腹を喘ぎながら登った山道で、紅葉が始まった木々の間のその奥の
枝先の隙間から突如岩、山をいくつも積み重ねたような異様な山姿は、仁王様の
ようにも見え、暫しその山容に見入ってしまった。

 

日光市と利根郡片品村の境にあるこの山は、中禅寺湖や戦場ヶ原のある日光の
観光地
にも程近く、賑わう尾瀬ケ原にも近いがその姿を垣間見ることは難しい。
関東北部の山に入り、山中深く分け入って思いがけずひょっこり顔を出してくる、
それも、安山岩の溶岩円頂丘という、拳骨を振り上げたような溶岩ドームの
部分だけが見えるので更にびっくりする。
ひょっとすると、長年の登山者でも、山中深く紛れ込んでひっそりと佇んでいる
この山の存在を知らないままでいることが珍しくないだろう。

 

イメージ 1 [白根山]
                 拳骨を振り上げたような溶岩ドーム

 

さて、この特異な山に何処から登っていくか。
アクセスの良さからいえば、スキー場のある丸沼高原だろうか。
魅力的なこの山になるべく早く接近していくためには、なんとも安易だった
かもしれない。
初めて訪れた丸沼高原はこじんまりとして落ち着いた高原風景で、
周りは急峻な山裾が迫り、斜面は夏スキーのゲレンデになっていた。
ロープウェイの乗り場が麓の登山口にもなっており山頂駅まで運び上げてくれる。
登山というよりも、観光地である丸沼高原の雰囲気にどっぷりと浸かっている
ことに違和感を感じながら爽やかな高原の雰囲気にいつまでも溶け込めずにいた。

 

私は、登山とは、本来、”山旅”であって、”観光”とは異質なものという意識を
持っている。見知らぬ山々を巡り、山歩きの愉しみを味わいながら旅することで、
画一的な物見遊山の観光と一線を画してきたのだろう。そのようなものが
”山旅”の中にはあるのだと思っていた。
久しぶりの登山で、私の心は、”山旅”と”観光”の狭間で揺れていた。

 

なんとなく観光の匂いのするロープウェイの乗り場を登山口とした以上、
ロープウェイに乗るか、乗らぬかどちらかしかない。
現代文明の利器に満ち溢れた現代社会にいて、発達した交通手段と充実した
山の設備や近代的登山用具を身につけ、今更、何を言わんか。
「時代の子」として素直に、現代の恩恵を享受すべきではないのか。

 

いつか書いた山日記の中で、乗合バスで三千メートル近い畳平まで登っていく
安易さは乗鞍岳が山岳としての威厳や風格という意味を削がれて、
単なる観光の山に落ちぶれてしまったようで ”かわいそうな山” と呼んだ
乗鞍のあの時の感覚そのものであった。
自分にとって、山歩きはどうあるべきか、山を愉しむこと、山を想う贅沢な
回想が沸々と湧き上がってきた。
登山の本質はどこへいってしまったのだろうか、と自問自答の答えは
曖昧だった。

 

便利なロープウェイがあればそれに頼り、登山に観光の要素も柔軟に
取り入れてみることも一考だろう。
行程の時間短縮、体力の温存、と割り切ってみることもできれば、
泰然自若としてそれを受け入れることができる。
一応、登山スタイルで身を固めた容姿であればこそ、ロープウェイの乗り場に
素直に並ぶのは些か抵抗があった。
いろいろと、山登りのご託宣は並べてみたものの、緑なす急斜面を一気に
駆け上がっていくゴンドラからの眺めは爽快だった。
夏の熱気が残るゴンドラの大きな窓には雄大な深緑の山並みが幾重にも広がり、
誰もが手軽に深山幽谷の赴きを味わうことも”山旅”の魅力にはちがいない。

 

山頂駅に到着すると、
麓の賑わいがそのまま運び込まれたような雰囲気であった。そこからは、
仁王様の拳骨を振り上げたような溶岩ドームが間近に聳え立っている。
山頂広場にある重い鉄格子の扉を押し開けると、いよいよ日光白根山の
”山旅”が始まる。
薄暗い森林限界の森を抜けると明るく開けた砂礫の山肌が続き、白根火山
本体の拳骨の円頂丘に登ってゆく。
突き上げた拳の一番高いところが頂上なのだろうが、ごつごつした大岩は、
いったい何処が頂上かわからないほど目だった高低さがない。
好天に恵まれた山頂は混雑と言ってよいほどの賑わいだった。
山頂で戯れる人々の姿を見ても何も親しみは沸いてこなかった。
それは、安易にロープウェイに乗って頂に辿り着いた自分そのものの姿
でもあった。
山頂の空気は淀み、ざわめきだけが響き渡っていた。
山頂の賑わいに居たたまれず、すぐさま下山を決めた。

 

帰路は、五色沼に向かい、奥白根の麓を回って帰ることにした。
稜線から登山者はほとんどいなくなり、眼下にエメラルドグリーンの五色沼が
奥白根の眼のように神秘的な輝きを放っていた。
体力もあり、時間的な余裕も生まれ、山頂から400m程の標高差も難なく
降りられたのもロープウェイのお陰だろう。

 

「お一人だから、撮ってあげたら・・・?」岩の上に腰を下ろしていると
そんな声が聞こえた。
傍に居合わせたご婦人が仲間の方に向かって話しかけたのだった。
「一人で来ていらっしゃるのだから、記念写真を撮って差し上げなさい。」と
仰った。
私のような者に、なんだか嬉しいような、恥ずかしいようなおかしな気分では
あった。愉しそうにして寛いでいるメンバーの傍に私が居て、独り惨めな
寂しさが込み上げていた。
稜線の風はいつまでも穏やかに吹いて、少し熱くなった頬を撫ぜていった。

 

婦人の掛け声に答えて、一人の紳士が私のところに駆け寄ってきた。
素直に私のカメラをし出して、シャッターを切っていただくことにした。
ところが、私のカメラは、既に撮れる枚数をオーバーしていたようで、
しっかりポーズをとった記念撮影は空振りに終わった。
拍子抜けした場面で年配の紳士に丁寧にお礼を言い、更に恥ずかしい想いをして
その場を後にした。

 

急峻な下りの山道が続き、一面整然とした樹林帯の中に入っていった。
その景色を俯瞰しながら眺めてゆく山道は、なんとも気持ちの良いものだった。
一頻り下り、広く開けた鞍部に出て、道標になるような大きな岩のベットの上に
大の字になって寝転んだ。
下りきって平坦になった登山道は、目印にしていた避難小屋の前を通り、
五色沼に続いている。
ゆっくり、のんびり歩き、前方の視界が開けると五色沼の畔にでた。
標高2175mの沼の畔は、白根山、五色山、前白根に囲まれてまったく静かな
別天地の佇まいだった。紅葉にはまだ早く、木々は色づいていない。
沼の水面は漣すらなくひっそりとしていた。
白根火山の爆発により堰き止められた沼地はいつまでもここに居たいと想わせる
ような心安らぐ景色であった。
山々に抱かれた不思議な安堵感に包まれた沼の畔に腰を下ろし、五色沼と
それを取り囲む山々を飽くほど眺めていた。
荒々しい火山活動がこのような美しい風景を形作ってきたことを想うと、
自然の造形から人間の感覚が生まれることがなんとも不思議なことのように
感じられる。
大昔、このあたりを通りかかった人々も、私と同様の感慨に浸ったのでは
ないだろうかと想われた。

 

周りを山々に囲まれているということは、帰路はこの山裾をひとしきり登って
いかねばならない。
登りつめた頂の朽ちた木の上に横になり、青空を仰いでしはし大休止した。
周りの色づき始めた木々を独り占めにして、青空にゆうゆうと流れる雲を
追っていた。
目を瞑っていると人の声が近づいては遠ざかり、また足音が響いては
消えていった。

 

外輪山の頂を後にして、静まり返った森を抜けると弥陀ケ池の畔に出てくる。
菅沼からの道が沼の奥へと続いていた。そのまま、菅沼への道をたどっても
みたかった。
白根に登る道は、日光湯元温泉から外山尾根、天狗平を経て前白根を巡っている。
別の登山コースを想像しながら、七色平の森の中を彷徨い歩いた。
鬱蒼とした森林のどの辺りが七色平なのか、今、何処を歩いているのかさえ
わからなくなりながら道迷いを繰り返し、今朝来たロープウェイの山頂駅まで
戻ってきた。

 

ロープウェイで容易に仁王様の拳の頂まであげてもらい、車窓からは雄大な
奥日光の光景を眺望することができた。
いつまでも、心の中に不甲斐なさは残っていたものの、不図、山歩きの仕方に
想いを巡らせ、森閑とした森の中をゆっくりと歩いてゆく余裕を貰った山旅
だった。

 

そうそう、あれから三年が経ち、気がつくと奥白根で撮影した写真は消えて
しまい、想い出の写真は、帰路、山旅を終えてロープウェイ駅から振り向いて
撮った仁王様の拳の頂の写真一枚だけとなっていた。
期せずして辿りついた山奥の静かな沼の畔で、静謐なひと時を味わい、自然の
織り成す光景とともに奥白根の残像が鮮やかに蘇って来る心の風景となって
残っている。

 

    木曽 御嶽山                     2013.8.8

田ノ原--- 御嶽神社遥拝所--- 大江大権現 ---九合目 --- 奥ノ院---
王滝頂上---剣ヶ峰---王滝頂上--- 九合目--- 遥拝所--- 田ノ原

 

 いつかは御嶽に行きたい。長いことそう思っていた。
あまりにも有名なこの山は、長い間、私の山行計画の片隅に置き去りにされていた。
それは、きっと、この山のもつ、山岳信仰の雰囲気と自分の中にあった、”登る山”としての
場違いな異質感だったように思われる。

 

 

登山口は、武蔵の普覚行者が登山道を開いたとされる御嶽山王滝口の道を選んだ。
その霊峰は、異様に大きく、巨大な塊となって迫ってきた。容易に畏怖の念を抱いてしまう
ほど、ご神体としての「御嶽」は、堂々と鎮座していた。
山が信仰の対象とされる。ご神体として山そのものが崇められる。なるほど、と思った瞬間
だった。
信州木曽路の只中に鎮座して聳えるご神体に恐る恐る近づき、しっかりと踏まれた行者道を
辿り、山岳信仰の山、霊峰「御嶽」に登って行った。

 

 

イメージ 1 [御嶽山 王滝口]

 

 

登山口となっている麓の田ノ原は、麓とはいえ、既に御嶽山の七合目(標高2180M)にある。
広大な天然自然公園をイメージしていたものの、そこには、社務所や観光センターが
あって、何やら人の気配の濃い、ありふれた観光地特有の雑踏の趣で、いささか拍子抜け
していた。
ここからは、正面に「御嶽」のご神体の姿が雄大にひろがり、弥が上にも霊気漲るご神体を
直接拝むこととなる。なんら信仰心のないよそ者が、御嶽講の白装束に身を包んだ人々に
混じり、俄か信者となって神妙な面持ちをしながら王滝口の鳥居をくぐっていった。

 

登拝の始まりは、大黒天が祭られた社で山旅の無事を祈願することとなった。
天然自然公園の中を御嶽山に向かってしばらく歩き、御嶽神社の遥拝所に立ち寄り再び
お参りした。
この先々もあらゆる所に社や祠が現れでてきて、登山ではない、山岳信仰の場である
ことをこれでもかと思い知らされることになる。大江大権現、あかっぱげのザレ場を通り、
八合目の金剛童子まで、祠を見つけるたびに二拝二拍手一拝し家族の幸福を願った。

 

かつて、この霊山に登りながら、修行の道を開いた普覚行者も唱えたであろう”六根清浄”
とは、どういうことであろうかと考えていた。
六根清浄を唱えながら登ってゆくことはどういうことか。
「六根」とは、眼、耳、鼻、舌、身、意の意味で”六根清浄”と唱えることで、身を清める、
六根が清浄になるとされる。
私の登拝は、六根の罪の懺悔でもなく、何らかの功徳があってのこととも想われない。
信心深い人々と神様の山に入ってゆく畏れ多き事々を少しでも払い除けて、幸多きことと、
山を無事に登り降りて戻って来られることだけを祈っていた。
それにしても、御嶽の登山中に一度も”六根清浄”の声を聞くことはなかった。

 

イメージ 2 [奥ノ院分岐の登山道から山頂を望む]

 

山頂も間近に見えるあたりに、「一口水」の湧水がある。このあたりが九合目であろうか。
「一口水」の名のとおり、一口だけ清水を掬い味わってみた。
奥ノ院分岐から山頂に向かってみたが、奥ノ院への道は山頂を遠巻きにして外れていき、
登山道は山頂部をトラバースして離れていった。
不覚にも地図と照合せずに踏み込んでしまった道は、踏み跡が怪しくなり浮石だらけに
なった。ここからは、地獄谷や継母岳まで俯瞰することができたのだろうが、それも眼にも
入らなかった。
何体かあった地蔵様のところに出たが、確かに此処が奥ノ院かどうかもわからず、さらに
奥の方に踏み跡が続いていた。

 

どうにも火口壁を回る尾根道が見当たらず、ふたたび九合目の分岐まで戻ることにした。
途中、すれ違った登山者に、山頂まで行くというのに下ってくる私に、尾根に上がり王滝頂上
に行ける道があること、王滝頂上への分岐があることを知らされた。
その場所までまた舞い戻ると、杭のように丸太が刺さった山頂への分岐が現れた。
よくよく見ると、メインルートからはずれた道が火口壁の尾根から王滝山頂の方へ踏み跡が
ついていた。
山頂まで日陰のない道であるにもかかわらず、水分補給はペットボトル1本だけだった。
日の権現と呼ばれる王滝頂上は、剣ヶ峰の王権現、士租権現の三権現とされ、ひとまず、
登拝の目的は果たせた。
もう少し余裕をもって計画を立てていたら御嶽の頂上山荘に泊まり、ご来光を拝むことも
できたであろう。

 

御嶽神社の鳥居をくぐり、険ヶ峰に向かう。強風が汗ばんだ体を容赦なく冷やした。
風を避けるものはない。低体温のことが頭をよぎり、神社に戻って片隅のところで着替えを
すまし、防寒着に身を包んであらためて険ヶ峰を目指した。
山頂には、立派過ぎる階段がかかり、信仰の山であって、登山とは違うある種の別世界だった。
独立峰の御嶽山頂からは、乗鞍岳、木曽駒ヶ岳、穂高、槍、笠ヶ岳の山々、南アルプスの
山並みを望むことができた。富士山は熱気の上がってきた霞の中だった。

 

イメージ 3 [御嶽山頂からの眺め]

 

とうとう股関節に痛みがでてきた。暑さで頭がボーっとして判断力が鈍っているようだった。
下山道の一角に御嶽講の白装束の人々が立ち止まり、何やら話し込んでいた。
一人の女性は、息遣いが荒く、苦しそうに座り込んでいた。
「下りはきついです。」通りすがりに聞こえた声は、歩くのはもう無理です、という叫びに
も近いものだった。御師、祈祷師なのか、他の誰かが、何か励ますような強い言葉をかけて
いるのを聴いた。霊山の頂上を極め、六根は、清浄になったのであろうか。
難行苦行の末、武蔵の普覚行者が開いたとされる王滝口の登山道を歩き、魂と身体はどう
なったのであろうか。
身を清め、白装束を身に纏った人々でさえ、尚且つ、苦しみと叱咤が待ち受けているのである。

 

修験道の道を歩む人々の傍らを通り過ぎる時こう想った。
かたや、登山者、山旅の道。かたや、修験者、修験道の道。山歩きを愉しむことのない
厳しい修行の道を、ただ只管、歩いてきたのであろうか。・・・そのような山歩きもあるのだ。
・・・それぞれにそれぞれの道を歩いて行く。
信仰としての修験道と、山登りの登山道が御嶽の山道ですれ違い、同じ御嶽山に登った
山の情念が、ふと、偶然にも山道で交錯した瞬間にも思えた。

 

帰路の途中、大桑のレストランで木曽福島の温泉を紹介してもらい、まだまだ炎暑の残る
湯煙の中で木曽路の山旅の一日を終えた。

 

    ぼくの少年時代     -お福ちゃんのこと-     

 

暑い夏の日、神社のお祭りの日だった。
遊び友達がいなかったのか、何か興味をそそられることでもあったのか、今では
何も想い出せないが、近所のこじんまりとした神社に独りででかけた。
沿道には、たくさんの屋台が立ち並び、ソースせんべいやら焼きそば、飴細工、
金魚すくい、お面、等々どれをとっても興味津々のものばかりだった。
ポケットにあった小銭でソースせんべいでも買ったのか、一通り屋台を眺めまわし、
最後に呼び声につられて覗き込んでみたのが、見世物小屋だった。
何本か見世物小屋の幟が立ち、子供心にも見るからに異様な雰囲気で、見世物
小屋には、狭い入口と出口があって、掘っ立て小屋の壁には、ろくろっ首やら
化け物の絵がおどろおどろしく描かれていた。

 

見世物小屋の前では、呼び込みのかけ声がして「お代は見てのお帰りだよ。」と
繰り返していた。
私のほかに誰もいないのに、「お代は見てのお帰りだよ。」と何度も言っていた。
私は、その言葉の意味がよく理解できずに、小屋の中で何をしているのか、
覗いてみるだけでもいいのか、タダということか、それとも、見世物小屋の中を
見てみて、良かったらお代を払うのかもしれない、などといろいろ気を回していた。
すると、見世物小屋の呼び込みのおじちゃんが近寄ってきて、
「お代は見てのお帰りだよ。」と、また言った。
さぁさぁと急かされているようで、気が付くと、そのまま見世物小屋の入り口に
入っていった。

 

イメージ 1 [見世物小屋]

 

 

見世物小屋の中は、表看板の絵のとおり、不気味な絵と得体の知れない化け物
が並んでいた。そのどれもまったく興味がなかった。
小屋の中は、15メートル程あるかないかの広さだった。
気もそぞろに見世物を眺めて歩きながら、それよりも、「お代は見てのお帰りだよ。」
という言葉の意味を考えていた。
見世物小屋の中心にあったのが、ろくろっ首だった。

 

誰かに「お福ちゃんやーい。」と呼ばれると、
「あい、あーい。」と言ってお福ちゃんが出てきた。目をくりくりさせて、にっこりと
した顔をしたかわいらしい女の子たった。ぼくより、もっと幼い少女に見えた。
みるみるお福ちゃんの首が伸びていって、1メートルも伸びたところで、また、
「お福ちゃんやーい。」と呼ばれると、天井近くで「あい、あーい。」と言って答えた。
すぐにお福ちゃんの首は元に戻り、粗末なカーテンが閉まって、
お福ちゃんは消えた。

首が伸びたお福ちゃんに、さして驚きもせず、これだけか、という思いが
残っていた。哀れなお福ちゃんの姿だけが記憶の底に残り、見世物小屋の中身を
知ってしまった後では、なんとも味気ない後味の悪い印象しか思い浮かべることが
できなかった。

 

すぐに出口の通路になり、出口には、先ほどの呼び込みのおじちゃんが、

待ち構えていた。

子供独りで見に来ていることに少し躊躇いながら私をじっと見つめていたようだった。

「いくらですか。」
「40円。」・・・  ポケットをどんなに探ってみても20円しか持っていない。
案の定、出口で躓いた。見世物小屋はタダではなかった。
咄嗟に、有り金の20円を渡し、
「あとは家から持ってきます。」と言い逃れて駆け出して家まで帰った。

台所で母を見つけると、神社で見世物小屋に入ったこと、入場料が40円で、
20円しか持っていなかったことを話した。
母からもらった20円を握り締め、急いで家を飛び出した。再び、神社の
見世物小屋に向かって駆け出して行った。
ようやく、呼び込みのおじちゃんを見つけて、残金の20円を渡したのだった。

 

小学校4年生くらいの夏のことだ。
あれ以来、このような見世物小屋に入ったことはない。
お福ちゃんの顔も、呼び込みのおじちゃんの顔も、はっきりしないが、
見世物小屋の光景は、鮮明に覚えている。
 
今でも、どこからか、呼び込みのおじちゃんの声が聞こえてくるようだ。
「お代は見てのお帰りだよ。」 ・ ・ ・
それは、見たら金を払わずにはいられない程の見世物で、お気に召すこと
請け合いの代物。お代は(料金は)、見てからの(観賞した後の)お支払いで
結構です。お帰り(退出時に)お支払い下さい。・・・ということだ。

 

それから、何十年も経って、ぼくは、会社をお払い箱になる歳になった。
不思議に、お福ちゃんのことが脳裏に蘇ってきたのだった。
そして、想ったことは、
今頃、お福ちゃんはどうしているのだろうか、と。
しばらくして、なんだか、とても悲しくなってしまった。