こんばんは。

 

きょうの愛知県は、ひさびさに晴れ。ただ、風がとてもつよいです。

 

 

 

 

 

 

一方、定年される調教師の方々の引退も発表されました。

厩舎の経営、競走馬の育成など、ほんとうに長い間ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

お祝いの意味を込めて、この曲を。

 

 

 

 

 

 

 

ここからは、ショスタコーヴィチについて。

 

 

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich/1906-1975)

 

ショスタコーヴィチの音楽は暗く重い雰囲気のものが多いですが、その一方でジャズ風の軽妙な作品も残しています。

 

 

ワルツ第2番(セカンド・ワルツ) 

『ジャズ組曲』第2番(舞台管弦楽のための組曲)より

 

André Rieu - The Second Waltz 

 


 

 

 

 

 

【以下は、名古屋外語大亀山郁夫学長の『ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』より引用】

ショスタコーヴィチは10代からドストエフスキーを読んでいて、おそらくどんな作曲家よりも文学的だった。20世紀の多くの作曲家が12音技法などを発展させ音楽から意味を剥奪していく中で、彼は音楽の意味が大事だと考え、どうやって意味を持ち込むか、そこに徹底してこだわった。

 

1906〜75年に生きたショスタコーヴィチは生涯がすっぽりとソヴィエト連邦の時代にはまる「生粋のソビエト人作曲家」。1930年代後半の大粛清を生き延び、スターリンとの関係をめぐって毀誉褒貶(きよほうへん)があるが、交響曲第5番はスターリンのために書いたといえる。

 

 

1936年スターリンがオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を観劇したが「スンブール(荒唐無稽)」と言った。ショスタコーヴィチが政治色の乏しい歌劇で大衆の心を掴んでいる状況に当局は危機感を覚え、『プラウダ』は社説で批判し失脚を図ろうとした。しかしショスタコーヴィチは処罰されなかった。『マクベス夫人』は以後20年以上にわたり事実上の上演禁止となった。

 

オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』

(2022年上演のハイライト) - Keri-Lynn Wilson conducts

 

 

 

 

芸術家は権力者、パトロンに対しては2つの感情を抱く。愛と嫌悪と。好きなようにやらせてくれているので恩義を感じる一方、過剰な自尊心からくる憎悪もある。その関係は非常に複雑だ。

 

 

交響曲第5番 『革命』 第4楽章

NHK交響楽団  指揮:アシュケナージ

 

 

 

Symphony No.5 in D Minor Op.47(全楽章)

2014 パシフィック・ミュージック・フェスティバル札幌  指揮:佐渡 裕

 

Conductor:Yutaka Sado 

Orchestra:PMF America, PMF Orchestra 

August 2nd, 2014, Sapporo Concert Hall ”Kitara”

 

 

 

スターリンにショスタコーヴィチの音楽が理解できていたかどうかは疑問だが、芸術家として尊重した。同時代の作家や詩人を弾圧し、粛清し、虐殺したが、音楽だけは不可侵であり、ショスタコーヴィチに特権的な地位を与えていた。

 

ショスタコーヴィチにもおそらく、スターリンが自分を愛しているという確信があったと思う。彼が罵倒していたのはむしろスターリンの取り巻きたちが牛耳る検閲権力だった。 

 

天才芸術家で超自己中心主義だから、芸術がよければ、音楽がよければいいというところがショスタコーヴィチにあった。交響曲第7番「レニングラード」などは戦う市民への励ましとはとても思えない。他者の死を悼む共感力が出てきたのは、晩年になってから。

 

 

交響曲第7番  "レニングラード" 第1楽章 part 1(06:34)

 

 

 

 

交響曲第7番 全楽章(1:23:38)

Klaus Mäkelä, Dirigent – Frankfurt Radio Symphony

 

 

 

 

 

社会主義の理想の下では、すべての音楽は国家の要請によって書かれる。

そこに芸術家のインスピレーションの源、個人的な「愛」を込めると社会主義に対する反証となる。

 

フルシチョフは芸術に関心がなかった。1960年に作曲家を力ずくで共産党員にした。これは本当にショックだったと思う。スターリンの場合は彼を党にかかわらせないように純粋に作曲家として守った。党員になれば、表向きの革命賛美が、衷心からの賛美と受け止められ、作曲家としての生命を絶たれる危険があった。

 

そこから作曲家の本当の闘いが始まった。欧州の最先端の音楽的な成果を取り込み、自分の技や哲学も全部注ぎ込んで、一連の歌曲や交響曲第13番から第15番を作った。

 

 

 

交響曲第13番 『バビ・ヤール』 Part-1/7

Symphony No. 13 "Babi Yar": 1st Movement

バビ・ヤールでのナチのユダヤ人虐殺や、帝政ロシア時代末期の反ユダヤ団体「ロシア民族同盟」によるユダヤ人排斥運動の糾弾。

 

 

 

バビ・ヤール

1941年9月19日、45日間にわたるキーウ包囲戦の後、ドイツ軍がキーウ市に入城した。占領は1943年まで続いた。独ソ戦でソビエト連邦に侵攻したナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)の舞台になったことで知られる。

 

この曲は「ソビエト連邦には人種・民族問題は存在しない」というのが建前であったため問題となり、フルシチョフの命令で音楽を書き換えることが要求されたが、ショスタコーヴィチはこれを拒んだ。

 

しかし、犠牲となった老人や子供に思いを馳せる部分は、「ファシズム(ナチス・ドイツ)の侵攻を阻んだロシアの偉業」を讃える内容に変更された。

 

babi yar 1941

 

 

 

フルシチョフとブレジネフの時代には仲間が多く粛清され、自殺した女性詩人ツヴェターエワ等のいわば殉教者たちへの負い目の意識、そこにしか、自分の音楽的な目標、生きる目標がなくなった。彼自身も、がんその他の病でろくに手も動かない悲惨な状況にあった。

 

ショスタコーヴィチは体調の悪化から死を意識するようになり、この作品(交響曲第14番)を一つの集大成とみなした。1969年6月21日にモスクワ音楽院小ホールにおいてリハーサルが行われた。

 

このときのスピーチで「人生は一度しかない。だから私たちは、人生において誠実に、胸を張り 恥じることなく生きるべきなのです」と述べたという。

 

 

交響曲第14番

Symphony No. 14 in G Minor - X. Der Tod des Dichters

(第10楽章 詩人の死)

歌詞:リルケ

 

 

 

 

 

ショスタコーヴィチの音楽は重たい雰囲気のものが多く、

また背景にも社会主義が色濃くありますが何故若い方が

聴くようになったのでしょうか。

 

 

「今は若者が精神的に弱くなって傷ついている時代」

 

「そういう時代にショスタコーヴィチのような暴力性を

含んだ音楽がむしろトラウマを癒やしてくれるのでは

 

「若い人は、社会主義を完全に過去の物語

としていて、体制批判抜きに音楽を純粋に

音の造形物として楽しんでいるのでしょう」

 

「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」

亀山郁夫著

 

 

 

【引用:東洋経済オンライン/wikipedia】

 

 

さいごまで御覧いただき、ありがとうございます。