昨日は、木古内町にある道の駅は道南9町の力がとても大きいということを書かせていただきました。
今日は、その9町についてもう少し詳しくご紹介したいと思います。
≪道南の歴史≫
北海道はご承知の通り、長らくアイヌ民族だけが住んでいました。
アイヌは文字を持たなかったため、 歴史について詳しいことはわかっていません。
ただ遺跡などから、縄文時代から既にひとが住んでいたことは確かなようです。
北海道の北半分を占めていたオホーツク文化人と呼ばれる部族が主流だったところに
アイヌ人が10世紀以降、サハリンから南下してきてオホーツク文化人を排除・同化しながら
全道に進出したと、ウィキペディア にあります。
松前藩の始祖は室町時代の武田信広(甲斐源氏 )です。その後、松前姓を名乗ります。
1590年代の松前慶広の時代に 徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められ、
松前藩が始まりました。
といっても、支配地域は北海道南部の一部分にすぎませんでした(下図 斜線部分)
これは、簡単にいうと寒くて住めなかったのだと思います。
江戸時代後期、津軽藩士や農民を蝦夷地(宗谷と斜里)に派遣し、越冬実験をしたら100人中72人が
極寒と栄養不足で死亡したという記録があります。(津軽藩士殉難事件)
松前町や函館市は、津軽海峡に面していてその暖流の影響で道北・道東のような厳しい寒さには
なりません。同じ道南でも、噴火湾沿いは南西部よりは寒さが厳しいといえます。
その証拠に北海道最南端の松前町(正確には最南端は福島町白神岬)にだけは 孟宗竹が
自生しています。(また、その町並みは北の小京都といわれます)
松前藩は春~秋にアイヌの部族と交易しながら、冬も和人が住んでいたのは道南だけでした。
北海道南西部の9町にはその松前藩の影響が、例えば松前神楽などに色濃く残っています。
その他の、道央から北の土地は、明治時代に屯田兵や内地からの開拓民が切り拓きました。
道南でも未開拓の地はけっこうあったようで、わたしの先祖も山形県庄内藩からの開拓民でした。
ですから幕末まで北海道は、松前藩とアイヌのものだったといえます。
(その間、 松前藩は1807年に 陸奥国伊達郡梁川に転封となっていますが 、1821年に絵師の家老の
尽力などで 松前に復領し たといわれています )
(復領と同時に松前藩は 北方警備の役割を担わされ 1849年に初めてお城を持つことになりました。
それが松前福山城です。 しかし、いろいろな事情で解体されてしまい、現在の松前城は 昭和36年に
復元されたものです)
松前藩の運命が大きく変わったのは 日米和親条約によって箱館が開港された時からです。
幕府は 箱館が開港されると 再び蝦夷地の直轄化を目指し 乙部村以北と木古内村以東の蝦夷地を
召し上げ、現在の江差町・上ノ国町・厚沢部町( 館城 )・知内町・福島町と松前町だけが藩の領地と
なりました。
明治維新、戊辰戦争~箱館戦争の流れのなかで松前藩は館藩という藩名になり、政庁を厚沢部村の
館城に移そうとしましたが完成前に 函館戦争があり 新政府側が勝ったことから 、以後道南の中心地は箱館に移りました。
箱館は天然の良港であることから、幕府の 奉行所が置かれ 1859年に 日本国内初となる対外貿易港として開港しました。
そして外国人居留地が函館山の麓にできて、 それが異国情緒豊かな街並みと なりました。
函館湾 天然の良港
津軽海峡の波が直接こない構造
≪現在の道南9町≫
松前町
地元に住んでいた者としての印象は、なんといっても松前城と松前公園の桜です。
日本さくら名所100選に なっている松前公園の桜は 250種1万本の桜が 2か月に渡り 咲きます。
この種類の多さで全国屈指の桜の名所として有名になっています。
また松前藩主代々の菩提寺である 法幢寺 が歴史の重みを感じさせます。
代々藩主の墓所
お寺そばの竹林
また、マグロ釣りができることでも有名です。
後編に続きます。




