わたしはいま、札幌で「カメラ転売」という仕事をしています。

中古のカメラを仕入れて、ヤフオクで販売して収入を得ています。

今日は、どうしてカメラ転売を始めようと思ったのか、詳しく書くことにしました。

 

専業主婦になりたかった

結婚する前からずっと、わたしは専業主婦になりたいと思っていました。

子供の服を作り、お菓子を焼いて子供の帰りを待つような、家庭的なお母さんになりたかったのです。

でも実際に子供が生まれるとお世話と家事でせいいっぱいで、子供の服を悠長に縫っているひまなんてありませんでした。

せっかくお菓子を焼いても、子供が食べてくれないこともありました。

理想と現実ってちがうんだな、とつくづく思いました。

それでも、洋裁は得意だったのでわずかな時間を見つけて子供服を作って着せては、自己満足していました。

 

ハンドメイド作家デビュー

2012年ころ、世の中ではハンドメイドブームが起こっていました。

幼稚園のママ友の中にも、あみぐるみやワイヤークラフトを作ってイベントに出品している人たちが何人かいました。

そして嬉しいことに、みちたさんも何か縫っていっしょに出してみない?とお声がけいただいたので、思い切ってわたしも出品してみることにしたのです。

わたしは独身のころ母が経営するお直しの店で8年ほど働いていたので、洋裁に関してはプロです。

どうせ出すなら素人が作れないもの、ニッチなものにしたいと思い、ニット系の服を出品することにしました。

ニットというとセーター?と言われることが多いのですが、そうではありません。

縫製の世界ではTシャツやカットソーなど、伸び縮みする衣類のことをまとめてニットと呼んでいます。

これらのニット素材は、普通の直線ミシンで縫うと縫い目が伸び縮みしないため、頭が入らなかったり脱ぎ着で縫い目が切れてしまったりします。

ニット素材を縫うには、ニット用の特殊なミシンが必要なのです。

わたしは嫁入り道具にミシン3台と業務用のアイロンを携えてきたので、ニット系の服を縫う環境はバッチリでした。

子供服を出品しよう!と俄然はりきりました。

そのころ、子供は年長と1歳。

日中は縫えません。

子供たちが寝てから夜中までひたすら縫いました。

せっかくイベントに出すなら一枚でも出品数を増やしたい。

そんな思いから、毎日夜中の3時くらいまで縫いました。

そして、どうせ作るならネットでも売りたい、と欲を出すようになりました。

ネットでショップを開き、写真を撮り、文章を考え、出品しました。

そのショップがこちら。

 

 

 


きっとアドレナリンが出まくっていたんでしょうね、不思議とまったく眠くありませんでした。

そして交感神経もぶっちぎっていたんでしょうね、朝は4時か5時くらいにシャッキリ目が覚めました。

わたしの好きな「努力は夢中に勝てない」という言葉があります。

その頃のわたしは、まさに夢中でした。

自分が努力してるなんて微塵も思っていませんでした。

ただただ楽しくて仕方がなかったのです。

バカなことに、

「わたし1時間しか寝なくてもいい身体になっちゃったかも!超ラッキー!!」

と思っていました。

日中もずーっとハンドメイドのことを考えていました。

これが、その後のどん底の始まりだとも知らずに。

 

全然売れなかったイベント

そのイベントの数日前から、さすがに疲れを感じるようになりました。

ひとことで言うと「へとへと」という感じです。

でも一枚でも多く縫いたい。

あと2日だから。

あと1日だけ。

と最後は這いつくばるようにして準備をしました。

ハンドメイド作家は縫うだけが仕事ではありません。

値付け、品番付け、ラッピング、展示用の什器の準備、イベント出展の飾りつけ、お金の管理、販売・・・全部ひとりでこなさなければなりません。

夜中までかかって準備を終え、イベント当日はフラフラで店番をしました。

期待を裏切り、売れ行きはさっぱり。

2枚くらい売れた記憶があります。

作っているときは、品切れになっちゃうかもしれないくらい売れると思っていました。

モノさえ良ければ売れると、それはそれは大きな勘違いをしていたのです。

 

うつになっちゃった

イベントが終わってしばらくゆっくりしようと思いました。

昼も夜も泥のように眠りました。

数日ゆっくりしたら復活するだろうと思っていました。

ところが全然もどってこないのです。

2週間たっても1ヶ月たっても体調はもとに戻りませんでした。

さすがにおかしいと思って、寝ながらスマホで調べているうちに、わたしの症状とドンピシャの記事を見つけました。

そこには「うつ病」と書いてありました。

それを見て涙が止まりませんでした。

どうしてこんなことになっちゃったんだろうと思いました。

楽しくて幸せで仕方なかったのに。

何が原因でうつになってしまったのか、全く思い当たる節がありませんでした。

その日の午後、友人とお茶をする予定がありました。

わたしは泣きながら、うつになっちゃったかもしれないと訴えました。

座っているだけでつらい、とにかく横になりたい。

朝がとくに調子が悪い、日中ずっと寝ていると夕方頃に少し復活して動ける。

そしてやっと洗濯機を回す。

洗濯ものを干すのが一番つらい、腕がだるくて上がらない。

干しながら何度も横になり、何回にも分けてやっと一日分を干す。

もちろん、ごはんも作れない、買い物も行けない。

友人はすぐに近くの心療内科を探してくれました。

病院を探す気力さえ残っていなかったわたしには本当に救いでした。

評判のいい病院を探す、なんて余裕はありませんでした。

一番近くて行きやすい心療内科にその場で電話して予約しました。

病院は混んでいるようで、初診は半月も先でした。

その日の夜、仕事から帰ってきた夫にまた泣きながら、うつになってしまったと思うと訴えました。

意外にも、夫はそれほど動揺しませんでした。

なってしまったものはしょうがない、まずは病院に行こう、そして少し休もう、そんなことを言われました。

その言葉に救われ、私は毎日ただただぐったりしていました。

家族が出かける時に寝ている、ということはありませんでしたが、朝ごはんにただパンと牛乳だけ出してソファに横になっていました。

毎日作っていた夫のお弁当も作れなくなりました。

夫と小学生の息子が出かけると、1歳の娘にDVDを見せ、リビングのソファで一日中寝ていました。

本当にひどい母親でした。

でも当時のわたしには、他にどうすることもできなかったのです。

娘はわたしが寝ている時は、不思議と静かにしている子でした。

起きるとうれしそうに寄ってきました。

おそらく、寝ているときは起こしてはいけない、と感じていたのだと思います。

わたしの不調を感覚的にわかっていたのかもしれません。

それをいいことにわたしは、エンドレスでDVDをかけて延々と寝ていました。

掃除もできなくなりました。

家の中はどんどん汚れていきました。

その事実に気が滅入り、ストレスでさらに具合が悪くなるような気がしました。

夫は激務で、帰りが日付をまたぐことも珍しくありませんでした。

当時は、土日も半分以上出勤していたように思います。

協力してくれる気持ちは感じていましたが、正直日々の生活で頼ることはできませんでした。

心療内科で救われることを期待していましたが、劇的に良くなることはありませんでした。

うつになった原因もよくわからないままでした。

薬を処方され、頑張りすぎだとか、自己肯定感が低いだとか、ゆっくり休みなさいだとか言われました。

 

生活するだけでせいいっぱい

診療内科の先生の指示通り、なにもしないで毎日寝ていました。

うつになると眠れなくなるとか食欲が落ちるとか聞きますが、私の場合は反対でした。

とにかく眠くて眠くて仕方がない、そして起きているときは限界まで食べないと気が済みませんでした。

満腹中枢がおかしくなっているのはわかっていました。

でも止められないのです。

食べて食べて、気持ち悪くなるほど食べて、やっと手が止まるのです。

限界まで食べないとやめられない状況で、あっという間に10キロ以上太りました。

太るのがイヤで、指を口につっこんで吐いたりもしました。

けれどそれはよろしくないという知識と危機感はあったので、常習化しないようにはしました。

言わずもがな、どんどん太っていったのです。

そのうち娘を預けるようになりました。

わが家から車で5分ほどのところに夫の実家があります。

とても信頼できる義母で、子供たちが赤ちゃんの頃からしょっちゅう預かってもらいました。

義母に預けたら何の心配もありませんでした。

でも義母も忙しい人。

いつもいつもお世話になるわけにはいきません。


そんな時、いい託児所があると友人から聞いて娘を連れて行ってみました。

やさしそうなおばさん二人が、7~8人の子供を見ていました。

お昼ごはんは、煮魚や炊き込みごはんなどの、栄養たっぷりバランスのとれた手作りの食事でした。

お天気の良い日には近くの公園にも遊びに連れて行ってくれました。

娘に何もしてやれないわたしにとって、これらがどれほどありがたかったことか!


娘は、寝ているわたしの横でひとりでDVDを見ているよりよっぽど楽しかったのでしょう、毎日託児所に行きたがりました。

毎朝、顔さえ洗わない状態で娘を車に乗せ、託児所に送り、即帰って夕方までひたすら眠る、という生活が続きました。

チケット制で、うろ覚えですが確か1時間300円か400円で預かってもらえたと思います。

お金はかかりましたが、背に腹は代えられませんでした。


息子の参観日は這うようにして行きました。

体育館での学年合同の体育参観の日だけはこっそり休みました。

体育館でずっと立っているなんて、その頃のわたしにとっては拷問でしかなかったのです。

学年合同なら人数も多いことだろうし、息子がわたしを見つけられなくてもおかしくないと思いました。

2年生の息子は帰って来てから、お母さん来なかった、とわたしを責めました。

わたしは「行ったよ!体育館の右側の端っこにいたよ!」とがんと言い張りました。

息子は、納得しかねる、といった顔をしていました。

でも、お母さんに来て欲しいという息子の気持ちを考えると、本当は行けなかった、とはどうしても言えなかったのです。

買い物は小さなスーパーやコンビニで済ませていたと思います。

正直なところ、あまり記憶がありません。

元気なときにいつも利用していた近くの大きなスーパーへは、まったく行けなくなりました。

大きな店内をぐるっと回って買い物をしてレジに並ぶ、体力と気力がなかったのです。

何を買ってどうやって何を食べさせていたのか、ほとんど憶えていません。

生活することだけで、せいいっぱいでした。

それでも、強烈に憶えているできごともあります。

あるとき、スパゲティをゆでて、セブンイレブンで買ったカルボナーラのソースをかけるだけの晩ごはんの日がありました。

そんな食事しか出せない自分に涙が出そうでした。

けれど、息子が興奮気味にこう言ったのです。

「こんなうまいもの、初めて食べた!」

その言葉に本当に救われました。

手作りの、栄養バランスの整った食事を出すことが母親のつとめだと信じて疑わなかったわたしに、息子は、もっと気楽にしても子供は育つよ、と教えてくれているようでした。

また、こんなこともありました。

朝は天気が良かったのに、昼ごろから雨が降ってきたのです。

雨脚はどんどん強まり、息子の下校時間にはどしゃぶりになっていました。

息子は傘を持って出ませんでした。

でもわたしはほとんど寝たきりです。

傘を持って迎えに行けるような元気はありませんでした。

心の中で息子にあやまりながら、不甲斐ない自分を責めていたとき、玄関のドアがガチャン!と勢いよく開きました。

「気持ちいーい!!」

雨に打たれたのが気持ちよかったのだそう。

どうして迎えに来てくれないの、と泣かれると思っていたわたしは拍子抜けしました。

そして、この子が自分の子で本当によかった、と心から愛おしく感じるとともに、息子への感謝の気持ちでいっぱいになったのです。

セブンのカルボナーラのように、食事は買って出すだけでなんとかなります。

一番大変だったのは洗濯です。

洗濯だけは一日も休めません。

休んだら次の日もっと大変になるだけです。

洗濯物を干すという行為が、こんなにも体力を使うことだとは思いませんでした。

幸いなことに乾燥機があったので、すべて乾燥機につっこんでいました。

夫のワイシャツにアイロンをかけるなんてもちろん出来ずに、全部クリーニングに出していました。

こうやって生活費はどんどん膨らみました。

ずっとつけていた家計簿も書けなくなっていたので、当時生活費にどれくらいかかっていたのかわかりません。

でも、かなり家計を圧迫していたのは確かです。

あきらかに、毎月の夫のお給料以上の出費がありました。支払いが大変になってくると、通帳を前にどうしようどうしようと思いながらボーナスを待ちわびていました。

そしてそんなある日、夫に内示が出たのです。

千葉への転勤でした。


夫は結婚する時「おれは絶対に単身赴任はしない!」と宣言していました。

だから当然、家族全員で千葉に引っ越すことになると思いました。

けれど夫は、ひとりで行く、と言いました。

今わたしを連れていったらさらに悪化するだろうから、という理由です。

確かにわたしも、暮らしたことのない土地でその状態でうまくやっていける自信はありませんでした。

本当にありがたいことにそれから5年もの間、夫は家族のために寂しくて質素な単身赴任生活をしてくれたのです。

会社からは単身赴任手当というものがお給料に上乗せされました。

しかしこの手当により夫の年収が上がることになり、なんと所得税がぐんと増えてしまったのです。

かまどは2つになり、税金は増え、家計はますます苦しくなりました。

なんて理不尽なトラップだったのだろうと、今でも思います。

 

休んでいても全然良くならない

心療内科の先生は、とにかく休みなさい、と言いました。

でもずっと休んでいても全然良くなる気配はありませんでした。

もう1年も休んでいるのです。

これは、自分からなにかアクションを起こさなければこの先ずっと何も変わらないのではないか、と思いました。

先生は、好きなこと、楽しいことをしなさい、とも言いました。

でも、好きなことってなんだろう?

楽しいことってなんだろう?

おいしいものを食べに行くこと?

カフェでゆっくりお茶すること?

旅行に行くこと?

札幌の夫の実家に息子を預け、娘だけをつれて秋田の実家に帰ったりもしました。

両親はわたしのことをとても心配してくれていました。

ありがたいことに、実家では上げ膳据え膳で何もせずずっと寝ていました。


気分転換に両親と娘と4人でドライブに出かけたりもしました。

隣県の鶴岡市にある世界一のクラゲ水族館にも行きました。

巨大な水槽でゆらゆら漂うクラゲたちを見ていると、自分も深海の一部になったような気がしてとても癒されました。

でも一時的に癒されても、うつ状態が回復に向かうわけではありませんでした。

うつが回復するような好きなこと、楽しいことってなんだろう?

そもそも、好きなことをしようとすると全部お金がかかるのです。

お金がかからない楽しいことってないのかな?

そこでわたしはひらめきました。

好きな分野の仕事をすれば、楽しいのにお金も出て行かない。

むしろ入ってくる!一石二鳥じゃない?と。

けれど当時のわたしにとって、働くということはとてもリスキーなことでした。

うつを抱えて働くなんて、どう考えても現実的ではありませんでした。

自分の首を絞めるだけです。

うつが治ったら、縫製工場で働いてみたいな。

札幌に縫製工場ってあるのかな。

そう思って、ひまつぶしにスマホで「縫製工場 札幌」と検索してみました。

札幌にも縫製工場はあるみたいです。

何件かヒットしました。

ハローワークの情報も出てきました。


その求人を詳しく見て、私は超絶おどろきました。

なんとその求人は、わたしの家から徒歩10分ほどの場所にある縫製工場のものだったのです。

現在一名募集中です。

まさか徒歩圏内に縫製工場があるなんて。

そして今まさに募集中なんて!

こんなことってある?と思いました。

神様がわたしにくれたチャンスだとしか思えませんでした。

もしかしたら、体調が悪くて続けることはできないかもしれない。

会社に迷惑をかけてしまうかもしれない。

でも、そうなったらそうなった時。

それでもいいからチャレンジしたい!

そう思いました。

わたしはさっそく次の日ハローワークに行きました。

そしてその翌日、縫製工場の面接を受け、その場で採用が決まったのです。

夫には事後報告です。

 

承認欲求が満たされる快感

わたしが勤めることになった縫製工場は、医療用品の受注が多い工場でした。

抜管防止の手袋や、肩関節脱臼時のサポーター、転倒時に頭を守るための各種帽子、拘束具、保護ベルト、など様々な縫製がありました。

社長は50代くらいの男性、従業員は10名ほどで全員パートの女性でした。

次から次へと仕事が入って来て、毎日とても忙しい職場でした。

みんなおしゃべりなどせず、朝から夕方まで一心不乱に縫っていました。

入ってすぐは簡単な仕事ばかり回ってきましたが、わたしが縫えることを知って、社長は技術のいる仕事もガンガン振ってきました。

従業員は縫製の経験なしで入ってくる人が多いらしく、元から縫えるわたしはかなり重宝されたのだと思います。

「みちたさんが入ってくれて良かった」

「おかげで納期に間に合った」

「仕事がきれい」

そんなふうに褒められることで、しばらくぶりに達成感や優越感を感じました。

育児や家事では満たされたことがない部分の感情でした。

意外にも、体調は全然悪くなりませんでした。

むしろ、いいくらいでした。

ちょっと無理をすると疲れてしまう傾向はありましたが、仕事が負担になることはありませんでした。

仕事を始めて調子が良くなるということは、うつの原因はなんだったんだろう?と思いました。

承認欲求が満たされないことで調子が悪かった?

でもそれも少し考えにくいことでした。

確かに褒められて嬉しい気持ちにはなりましたが、それがなかったとしても育児にも家事にもなんら不満はありませんでした。

でも調子がいいのはいいことです。

小さな波をくりかえしながら、少しずつではありますがわたしは回復していきました。

平日週5日、9時から15時までの勤務でした。

お昼休みは仕事仲間とおしゃべりしながらお弁当を食べました。

子供を産んでから、初めてママ友以外の知り合いができたわたしにとって、子供抜きの話題は新鮮でした。

生活に張り合いが出てきました。

息子には放課後、校内にあるミニ児童館に行ってもらいました。

そのころには幼稚園の年少さんになっていた娘も、延長保育です。

 

もっとお給料が欲しい

時給は786円。

当時の北海道の最低賃金です。

縫製業界は厳しいので、最低賃金での雇用は珍しくありません。

平日毎日9時から15時まで働いて、お給料は7万円前後でした。

この金額は当時のわたしにとって、とても大きなものでした。

その7万円のおかげで、家計にも少しゆとりが出るようになりました。

そして、元気になると欲が出てきたのです。

もっとお給料が欲しい。

わたしは16時まで働きたいと社長に申し出ました。

仕事は余るほどあったので、社長は喜んで承諾してくれました。

9時から16時まで、お昼休みを除いて平日毎日6時間働きました。

16時に終わるとすぐ自転車に乗って家に帰り、車に乗りかえスーパーに買い物に行き、その足で幼稚園に娘を迎えに行きました。

帰ると17時半、それからごはん支度を始め、ごはんを食べさせ、子供をお風呂に入れ、20時半に寝かしつけ。

お給料は8万円を越えるようになりましたが、常に時間に追われる日々が始まりました。

わたしの口癖は「はやく」になりました。

はやく片づけて。

はやくごはん食べようね。はやく寝なさい。

はやく、はやく…。

一日中同じ姿勢でミシンを踏んでいるので、身体のあちこちに痛みが出るようにもなりました。

股関節が痛くて歩いたり座ったりすることに支障が出始めました。

次に、背中と首が痛くて整体に通うようになりました。

整体でマッサージしてもらった直後はいいのですが、すぐにまた痛みが出ます。

当時の給与明細の一部



 

雇われることへの疑問

痛みに耐え、自分の身体をだましだまし酷使しているうちに、この仕事を長く続けるのは難しいのではないか、と思うようになりました。

それに加えて、時給での働き方にも疑問を感じるようになりました。

収入を増やそうとすると、時間を増やすしかない。

私は自分の時間を切り売りしているだけなのではないか。

しかも最低賃金で。

職場で周りを見回すと、いろんな人がいます。

この工場に入って初めて工業用ミシンを踏んだ人がほとんどです。

中には、雑な仕事をする人、限りなく遅い人、難しいものは縫えない人、いろいろいました。

一番手の遅い人より、わたしは倍以上は縫っている自信がありました。

正直なところ、従業員の中で仕事は一番か二番に早かったと思います。

そして雑でもなかった自信があります。

それでも同じ時給です。

何度も言いますが、最低賃金です。

わたしは、自分は本当にそれだけの価値しかないのだろうか、と思い始めていました。

やり方を変えたら、もっと短い時間でもっと収入を得ることができるのではないか、と。

しかも職場は常にギスギスしていました。

絶対に口をきかない二人がいて、その二人を中心に大きく派閥が分かれていました。

毎日、悪口・陰口・愚痴・文句のオンパレードでした。

わたしは、お昼休みが苦痛になっていました。

こんな人たちと同じ土俵にいるのはいやだ、と強く思いました。

ここはもうわたしの居場所ではない、と。

 

うつの原因

もうここにいるべきではない、と思ってしまったら一日も早く辞めたいのがわたしの性格です。

社長にはかなり引き止められ、泣きつかれ、実際に辞めることができたのは2ヶ月ほど先になりましたが、無事退職しました。

縫製工場には、2年ほどお世話になりました。

その間にうつもすっかり良くなり、薬も手放すことができました。

体重も元に戻りつつありました。

今ふり返ってみると、うつの原因は、不規則な生活による自律神経の乱れからきていたのではないかと思います。

実は、ハンドメイドに夢中になる前から、不規則な生活は続いていました。

夫は中学卒業と同時に実家を出た人で、36歳でわたしと結婚するまで20年以上ひとり暮らしをしてきた人です。

灯りのついた家に帰りたい、という思いが人一倍強かったのです。

結婚するとき、こう言われました。

「日中なにをしていてもいい、働いてもいいし、家にいてもいい。

でも、おれが帰って来るときは電気をつけて待っていてほしい。」と。

その思いが分かっていたので、夫が仕事で帰りが遅くなるときは、どんなに遅くても起きて待っていました。

日付が変わっても、です。

はじめから遅くなると分かっていれば、日中寝て調整することもできますが、そうはいきませんでした。

連絡がないな、ないな、と思いつつ待っていると22時くらいには眠くなってしまいます。

ソファでうたたねしてしまい、0時ころ帰ってきた夫に食事を出し、さて寝ましょうと思っても眠れないのです。

そして3時とか4時にやっと眠れたかと思ったら、5時には目覚ましがなる。

そして幼児と乳児のお世話で日中もあわただしく過ぎ、ときおり夜中も起こされる。

こんな不規則な生活で、ただでさえ自律神経のバランスを崩しがちだったのに、ハンドメイドで睡眠時間を極限まで削ったことで身体が耐えきれなくなり、うつを発症したのだと思うのです。

夫が単身赴任になり、夜は同じ時刻に寝ることができるようになりました。

そして仕事を始めたことで日中眠ることもなくなり、規則正しい生活ができるようになったことで、徐々に回復したのではないかと思います。

 

もう雇われたくない

仕事をやめたころ、とても驚いた出来事がありました。

息子が、5つ離れた妹にとてもやさしくなったのです。

子供たちがおだやかになりました。

わたしははっとしました。

子は親の鏡だと言います。

おだやかになったのはわたしなんじゃないか。

気づけば「はやく、はやく」と言わなくなった自分がいました。

気持ちがとてもゆったりしていました。

子供の服を縫う時間も、お菓子を焼く時間もできました。

わたしは今まで、自分がいかに子供たちにストレスをかけていたかを思い知りました。

やっぱり時間に追われて働くのは無理があった、仕事をやめて正解だった、と思いました。

でも、もう専業主婦に戻りたいとは思いませんでした。

雇われずに働く、それ以外に選択肢はないと強く思いました。


賽は投げられたのです。

自分の持っているカードで勝負する必要がある。

でもわたしはそんなにたくさんの強みは持っていませんでした。

自分が人より秀でている部分は、やっぱり縫製しかない。

ハンドメイドにもう一度挑戦するしかない。

そう思いました。

でも、今度はひとりで勝負するのではなく、誰かの力を借りようと思いました。

札幌で、女性の起業を応援する団体があることをFacebookで偶然知り、門戸をたたきました。

そこに所属し、紹介されたイベントに出展したり、メンバーさんと交流を深めたりして視野を広げ始めました。

 

コロナ渦で布マスクブランドを立ち上げ

そんな折、全世界をコロナウイルスがおそいました。

マスク生活の始まりです。

そこで、起業応援の団体で知り合った友人と、布マスクのブランドを立ち上げたのです。

転んでもただでは起きない、そんな気持ちでした。

ハンドメイドで食べて行くのに、全部ひとりでこなすのは無理があるということに、彼女もわたしも気づいていました。

だから手を組んだのです。

わたしが縫う人。

彼女はそれ以外の仕事全般を担う人。

そういう分担で始めました。

得意のニット素材で、ひもの長さを調節できるデザインで作った布マスクは、当時ほかのどの布マスクより優れていたと思います。

デザイン、素材、縫製、どれをとっても自慢できるつくりでした。

売上は好調でした。

刺繍やプリントを入れたチームマスクも何百枚単位での注文がありました。

毎日毎日マスクを縫っていました。

とても忙しく、充実した日々を送りました。

でも、マスク需要なんて一過性のもの。

すぐに売れなくなるに決まっています。

それに、コロナで飲食店や旅行業界が大打撃を受けるのをメディアで目にし、収入の柱がひとつでは脆いのではないかと思い始めました。

夫の会社だっていつどうなるかわかりません。

わたしは、縫製以外の収入が必要だと感じ、何かやれることはないかアンテナを張るようになりました。

そのころ、一緒にマスクブランドを立ち上げたパートナーは、集客のために情報発信について学んでいました。

SNSを使った集客の仕方を、オンラインのコミュニティに入って教わっていたのです。

そのコミュニティの主催者は、他にもいくつかコミュニティを主催していました。

その中のひとつが、カメラ転売塾でした。

カメラ転売というものをそこで初めて知ったわたしは、とても興味を持ちました。

わたしが持っているカードはハンドメイドしかありません。

それ以外で勝負したかったわたしが、これから学んでも勝負できる世界かもしれない、と思いました。

月額5万円の塾代を払って新しいことを始めるのは、とても勇気が要りました。

でも、月収100万円稼ぐ人もいるということを知り、これは挑戦するしかないと感じました。

カメラ転売で稼げなかったら、わたしは一生稼げないんじゃないか、と思い、思い切って入塾したのです。

わたしは、思い立ったら即行動タイプの人間なので、夫にもマスクブランドのパートナーにも事後報告というかたちで、カメラ転売を始めたことを伝えました。

ふたりは大反対でした。

パートナーは、マスクブランドの運営だって大変なのに、そんな大きなことを始めるなんて無理だと言いました。

無責任だと。

でもわたしは、マスクの需要が下火になってから新しいことを始めたって遅いと思っていました。

むしろ、いっしょにカメラ転売を始めないか、と誘いました。


でもパートナーは、マスクの需要はなくならないという言い分です。

お互いの主張は平行線。

結局、マスクの縫製のペースは落とさない、パートナーに迷惑をかけない、という約束で納得してもらいました。

夫はまた別の理由で大反対でした。

そんなうまい話があるわけがない。だまされているに決まっている、と。

でもそうではないことを丁寧に説明し、まずは3ヶ月だけやらせてほしいと頼み込みました。

3ヶ月やってみて見通しが立たなかったらやめる、という約束で、夫は渋々首をたてに振ってくれました。

わたしは夫と子供たちに「家族でハワイに行くお金を稼ぐ!」と宣言してカメラ転売をはじめました。

一年後にはハワイに行くぞ!と、わたしの新たな挑戦がはじまりました。



カメラ転売を始める

塾では主に、カメラやレンズの輸出転売を教えてくれました。

そのメリットをまとめるとざっと次のようになります。

・カメラメーカーのほとんどが日本製である
・中古カメラの8割は日本国内にある
・カメラには偽物がない
・英語で出品という参入障壁があるので敵が少ない

ひたすら行動あるのみです。

家事と食事以外はほぼパソコンに向かっていました。

仕入れはネットです。

店舗仕入れという足で稼ぐやり方も教わりましたが、ネット仕入れの方が自分に合っていると思いました。

始めたころからの利益は次のようになっています。



                         利益              利益率 

 1ヶ月目            9,548円          49.9% → 私物のレンズを売っただけ 

 2ヶ月目          21,172円          25.2% → これも私物 

 3ヶ月目          55,131円          17.3% 

 4ヶ月目          85,648円          17.7% 

 5ヶ月目        115,804円          19.4% 

 6ヶ月目          73,149円          17.9% 

 7ヶ月目          78,702円          19.2% 

 8ヶ月目        124,146円          16.9% 

 9ヶ月目        129,411円          15.6%

10ヶ月目       161,633円          14.2%

11ヶ月目       129,567円          15.7%

12ヶ月目       114,318円          18.6%

 

数字だけ見ると、縫製工場に勤めていたころより稼げるようになったので、悪くないように見えるかもしれません。

でもこれ、一年間家事と食事以外ほぼすべてミシンかカメラに向かっての数字です。

(マスクでの収入もありましたが、その数字はここでは割愛しています。)

ちなみに、睡眠時間だけは絶対に削らないと決めていました。

過去のあやまちをくりかえさないためです。22時には寝るようにしました。

疲れたら休むようにもしました。


ハワイに行く!と宣言して始めたので、子供たちはとても協力的でした。

休みの日もどこにも連れて行かずに、必死でカメラかミシンに向かっていても文句も言わず応援してくれました。

本当にマスクとカメラに明け暮れた一年でした。

でも、とてもじゃありませんがハワイなど行ける額ではありません。

しかも、ずっと走り続けて息切れもしてきました。

目標にしていた月額20万も、利益率20%も、このまま頑張っても手が届きそうにありませんでした。

 

新しい出会い

このままこの塾で月額5万円を払い続けて学んでいても、これ以上利益が上がらないのは明白でした。

同じ塾で一緒に頑張っている仲間もいましたが、まわりはわたしと似たような数字の人が多かったように思います。

もちろん利益を出して突き抜けている人もいるようでしたが、私はポンコツなため、ごらんの通り低空飛行のままでした。

でもカメラ転売をやめようとは思いませんでした。

やり方が悪いだけで、カメラで稼げるということはわかっていたからです。

思い悩んでいたころ、同じ塾の仲間が「こんなLINEのオープンチャット見つけたんだけど、知ってる?」と教えてくれたのが、こちらでした。

 

 

 


無料のオープンチャットだったので、すぐに登録して最初から全部読みました。

ほりさんのプロフィールも読みました。

ここに入り直してもう一度カメラ転売を学びたい、という気持ちが芽生えはじめていました。

この人の言っていることは信頼できる、直感でそう思ったのです。

やり方は今まで習って来たものと全然違います。

一から学び直すつもりで、えいっと入塾したのです。

また、思い立ったら即行動です。

チャンスの神様は前髪しかないのです。

やりたいと思ったときが、一瞬のチャンスなのです。

まさに、いつやるの、いまでしょ、なのです。

誰に反対されたって、自分がやりたければやるべきなのです。

ほりさんの塾に入って半年が過ぎました。

正直、きびしいこともたくさん言われました。

でもそんなことでへこたれたりしません。だってわたし、どうしても稼ぎたいのです。

まだまだ15万程度の利益です。

でも、利益率は30%を越える月も出てきました。

そして何より、稼働時間がものすごく減ったのです。

夏休み、子供たちとめいっぱい遊びました。

姪っ子も一週間あずかって、毎日動物園やプールや公園に遊びに行き、キャンプも行き、旅行もし、ほとんど仕事しない月でも10万の利益がありました。

作業は再出品と発送だけです。

最近では稼働時間は平均して一日3~4時間くらいです。

やっと人間的な生活ができるようになってきました。

あとはこつこつ積み上げて、利益を上げていきたい、と思っています。

そんなわたしの奮闘を、このnoteでも時々公開していこうと思います。

 

最後に

マスクの縫製は手放しました。

パートナーが「利益半分は割に合わない。わたしの方が大変だ。」と言い出したのです。

もともと合わない部分は感じていましたが、このひとことが決定打となって、私は一緒に立ち上げたマスクブランドから身を引きました。

彼女はマスクを縫製工場に作ってもらって、いまでもそのブランドを運営しています。


夫は、わたしがカメラ転売を始めて3ヶ月経ってもやめろとは言いませんでした。

今ではとても協力的です。

夏休みの旅行も、わたしの仕入れに合わせて行き先やスケジュールを考えるほどです。

自分が変われば人も変わるんだな、と思います。

一生懸命は伝わります。

雇われない働き方は、子供にとってもいい影響があります。

家にいられるというメリットがあるだけでなく、親の背中を見せられる働き方だと思うのです。

わが家の子供たちは、会社に行くお父さんの働き方は想像しかできません。

でも、子供の前でカメラの検品をし、写真を撮り、売れたー!と喜ぶ姿を見せることで、子供はお母さんの働き方を間近で見ることができます。

ぜんぜん完璧じゃない欠点だらけの母親ですが、わたしが頑張っている姿を見て子供が何か感じてくれたらいいな、と思っています。

ハワイにはまだ行っていません。

というか、まだ行けません。

円安になってしまって、海外はしばらくお預けかもしれません。

今は、家族で国内旅行がしたいです。

四国もいいな、九州も行ったことないな。

わたしにはまだまだ頑張る理由と原動力があります。

夫は5年の単身赴任生活を終え、2年ほど前から札幌にもどってきました。

わたしも元気になったのでお弁当生活も再開です。

 

 

 


思った以上に、長い長い記事になってしまいました。

最後まで読んでくださって本当にありがとうございます。

わたしの経験が誰かの役に立つことがあるとしたら、それはわたしにとってとても幸せなことです。

なにか感じていただけたら嬉しいです。

もし、あなたがカメラ転売に興味を持ったのなら、ぜひほりさんに相談してみてください。

人生、変わりますよ。