当時母は専業主婦だった。
友人と、公民館で書道や押絵やこぎん刺しや籐細工を習ったりしていた。

その中で私はこぎん刺しに興味を持った。

こぎん刺しとは、青森県の伝統工芸で刺し子の一種である。
和風の刺繍のようなもので、布の目に糸をひと針ひと針入れていき、模様を作るものだ。

ある日、家で母がこぎん刺しをしているのを見て私は言った。

「私もこぎんやりたい。」

布の目に沿って針を入れていくだけなので、そんなに難しそうには見えなかった。
自分にも出来ると思ったのだ。

母の答えはこうだった。

「2桁のわり算が出来るようになったらね。」

そうなのか。
こぎんってそんなに難しいわり算を使うのか。
奥が深い…。

私はさっそく算数の教科書を開いて、いつわり算を習えるか調べてみた。
3年生でわり算は習うけど、1桁止まりだ。
そうか、3年生ではこぎん刺しは出来ないのか。

私は一旦あきらめた。
そして4年生になって2桁のわり算が習える日を心待ちにするようになったのだ。

進級して新しい教科書をもらった時、一番最初に算数の教科書を開いた。
そしてわり算の単元を探した。

うーん、ない…。
がっかりした。
こぎん刺しまでの道のりは思った以上に遠いらしい。

半年後、後期の教科書配布の日、やっと目的のページを見つけた。
やったー!やっと来た!

指折り数えて2桁のわり算を習ったその日、私はランドセルをガタガタ言わせ、走って家に帰った。
そしてただいまを言うのももどかしく、母に言った。

「2桁のわり算習ったよ!こぎん教えて!」

すると母はこう言った。

「何の話?こぎん?やりたいの?」



そこで私は全てを悟ったのである。

2桁のわり算は、教えるのがめんどうな母の言い訳でしかなかったこと。
母はそのやりとりすら覚えていないこと。

よく考えたら電卓使えばいいだけの話である。

こぎん刺しへの情熱がスーッと冷めていった。
以来私は一度もこぎん刺しをしたことはない。