はじめてのおつかいは多分3歳か4歳だったと思う。
妹が熱を出し何も口にしないのでアイスを食べさせてやりたいが、買い物に連れて行くのも忍びないのでおつかいに行ってほしい、と母に頼まれたのである。
一番近い魚屋さんにはアイスは売っていないから、その先の肉屋さんまで行かなければならない。
不安を1ミリも感じなかった私は、待ってましたとばかり意気揚々とおつかいに出かけた。
具合の悪い妹に食べられるものを買ってきてあげなければならない、母の役に立つんだ!という使命感でいっぱいだった。
当時、線路沿いの小さな平屋に住んでいた。
その線路を背に少し歩くと右角に魚屋さんがある。
今では見ることが少なくなった、背の低いショーケースが並んでいる町の小さな魚屋さんだ。
昭和40年代、秋田ではハタハタが盛んに獲れていて、木箱にもりっと入ったものがひと箱数百円で売られていた。
ハタハタひと箱よりも木箱の方が高かったと語り継がれる時代だ。
母は箱買いしたハタハタを飯寿司にしてくれた。
飯寿司とは、魚と野菜を麹に漬けて発酵させた保存食である。
これがもう箸が止まらないほど美味しいのだ。
のちに母に「あんたはハタハタで太った」と言われるほど、私はこの飯寿司が好きだった。
母は北海道の自分の実家にもこの飯寿司を送った。
内陸で育った祖母はこの生魚が入った飯寿司になじみがなく、口にするのは抵抗があったらしい。
食中毒を心配してすぐには食べることができなかったようだ。
しかしそのまま捨ててしまうのも気が引けて、意を決して台所でひとくちだけ食べてみたところ、あまりの美味しさに「死んでもいい」と思ってほおばったと聞いたことがある。
昭和50年代以降ハタハタは値が上がり、箱買いできるような魚ではなくなってしまった。
秋田ではハタハタの飯寿司は今でも市販されているのだが、手作りのものとは味が全然違うのだ。
またあの飯寿司食べたいよね、と幾度となく母も私も口にしたが、未だその願いはかなっていない。
あの頃ハタハタを箱買いしていたのが、その角の小さな魚屋さんである。
魚屋さんの角を右に折れてしばらく行くとまた交差点があり、左角に肉屋さんがある。
魚屋さんから肉屋さんまではかなり遠かったイメージがあるが、子供の記憶なのでおそらく実際はそこまで距離はなかったと思う。
でもはじめてのおつかいにしては十分な遠出感はあった。
魚屋さんからはただまっすぐ歩けばいいだけだったので迷うことなく肉屋さんにたどり着いた。
アイスは自分の分も買っていいと言われていたので2つ選んだ。
カップのバニラアイスだ。
紙でできている蓋をはがして、お行儀悪くべろべろと舐めるのがこれまた美味しいのだ。
お金を払い、自信満々でお店を出た。
と、そこで事件が起きた。
小さな四つ角にある肉屋さんを出たところで、自分がどっちから来たのか分からなくなってしまったのである。
四つ角が全部同じ景色に見える。
こっちから来たような気もするし、あっちから来たような気もする。
考えれば考えるほど、見れば見るほど、そこは知らない景色でしかないような気がした。
泣きそうになりながら立ち尽くしていると、肉屋さんから白い三角巾をかぶったおばさんが出てきた。
なかなか帰ろうとしない子供が心配になったのだろう。
「どっちから来たか分からなくなっちゃったの。」
そう言われてもおばさんだって困る。
3歳の私は自宅の住所も電話番号も言えなかった。
四つ角でただふたりで困って立ち尽くすばかりだった。
どのくらい困っていたか憶えていない。
妹をおぶった母が歩いてくるのが目に入った。
帰りが遅い私を心配して迎えに来てくれたのだ。
嬉しさと申し訳なさが頭の中を駆け巡った。
私を心配して迎えに来てくれた母の愛を感じた嬉しさ。
熱のある妹に外出を強いてしまった申し訳なさ。
その妹を連れて来なければならなかった母への申し訳なさ。
役に立つことが出来なかった申し訳なさ。
あの時の情景を思い出すと、なぜか母が赤い風船を持って歩いて来たような記憶にすり替わる。
それは事実ではないのだが、私の心情が母に赤い風船を持たせているのかもしれない。
このまま家に帰れないかもしれないという心細さが安堵に変わった瞬間。
それから私は母と手をつなぎ、るんるんで帰った。
妹は赤い顔をして母の背で眠っていた。
家に帰るとバニラアイスは半分とけかかっていたが、いつにも増して蓋の裏のアイスは美味しかった。