「新・ノアの方舟」始末記 -7ページ目

編集長が倒れて入院した!

北原も勿論、当選など最初から考えていなかった。

そもそも、北原が手を挙げようとしたのは、
海外日系社会の存在を知らしめるとともに、
折角出来た在外選挙権の選挙人登録を増やすための起爆剤になれば、
との止むに止まれぬ思いからドン・キホーテ役を買って出たのだった。

北原が最初行動を起こした時、内外のメディアは
「年内にも解散必至」と いう論調だった。

何しろ「自民党をぶっ壊す!」として総裁選挙に勝った小泉首相が
すぐにでも解散総選挙をやるのではとの 多分にマスコミの
勝手な思い込みもあったのだろう。

北原も3、4カ月の短期決戦であれば手持ちの資金で
名乗りを上げる迄の行動は出来るとの計算だった。

所が年内に解散はなかった。

正月を過ぎると春3月には解散総選挙か?
というマスコミ予測が盛んに流された。

だが、これもなかった。

市内に借りた事務員が一人もいない事務所で 北原は
折り畳みベッドを広げて寝泊まりした。

市内に遊説に出る時は、事務所にかかってきた電話は
携帯に 転送するように切り替えて出かけた。

次第にマスメディアに解散の噂も出なくなった。

辻説法中、雨が降り出し自転車でガランとした事務所に
帰ってずぶ濡れの衣類を脱ぎ、途中で買ったコンビニ弁当を独り
ボソボソ食べる夜、さすがに虚しい気持ちに陥った。
夜、傘をさして自転車で毒々しいネオンが煌めく歓楽街を横目に銭湯に行く。

髪を洗っていると髪の毛がバサバサ手についた。

元来、楽天主義が信条の北原もさすがに
(ストレスを感じているんだな~)、とため息をついた。

月日だけはどんどん過ぎてゆき、当選の目処さえない絵空事の空しい遊説。

立候補に必要な供託金さえもなくなった。

たとえ愛知県に事務所を移したとしても立候補するための供託金もないのでは、
支援者を欺くことになる。

そんなある夜、電話が鳴った。
「宮崎編集長が倒れて入院したわよ!」
パラグアイの優子からだった。


ブラジル人が多い団地から逃げ出す日本人


熊本での活動に限界を感じていた北原は、
林田社長の呼びかけに心が動いた。

名古屋に飛んだ北原は、林田社長に会った。

同社長は愛知県でも大手の部類に入る人材派遣会社を経営しており、
50代のエネルギッシュな人だった。

「いろんな政治家の先生方に日系人就労者問題を相談に行っても
全然理解出来る人がいないので困りますよ」。

南米からの就労者は、バブル期の日本の3K業界にとっては
単なる使い捨ての労働力に過ぎなかった。

ブラジルの就労者たちが固まって住むようになった団地では
日本人居住者がその団地から逃げ出すという現象が起きていた。

夜、仕事帰りの女性が団地の公園を歩いている時、
後ろから大男の黒人がノソノソ歩いて来ると「恐くて逃げ出す」と
いうのも分からないではなかった。

使い捨てられて失業した彼等が、
自動車泥棒や麻薬の売人に転落するというケースも多いようだった。
また、親に連れられて来た子供たちの不登校も大きな問題になっていた。

南米就労者を労働力としか考えていない同業界でも同社長は、
就労者の人権や失業後の彼等のケアのため
NPO法人を作っているという異色の経営者だった。

北原のことは中日新聞で知ったらしかった。

マスコミが海外からの風変わりな立候補云々を叫ぶ北原を好意的に
取り上げていることから、南米からの出稼ぎ者が多い愛知県下で
北原を担げばそれなりにメディアが出稼ぎ就労者の社会問題を
取り上げてくれるだろうという計算のようだった。

「当選は無理ですよ」社長も突き放す様に断定した。


所詮、地方は地方

「南米の日系就労者がいろんな面で困っている。
力を貸してほしい。こちらで活動した方が支援者の理解を得やすいですよ」
との電話が再三入った。

北原が最初に事務所を立ち上げる時に3つの選択肢があった。

「海外日系社会の人権問題を取り上げるなら何と言っても東京ですよ」
とは、マスコミ関係者からのアドバイスだった。

一方、愛知県は南米からの就労者が日本で一番多いので
県民や地元マスコミの理解を得やすいとのアドバイスもあった。

確かに東京新聞に掲載された北原の記事が愛知県の中日新聞では
見出しを変えただけで2回も掲載された。

しかし、昨年の時点では東京も愛知もなんら拠点がなかったので
勝手知ったる郷里熊本での事務所立ち上げが一番手っ取り早かったし、
活動もしやすかった。

安易に事務所は開けたものの、やはり熊本は、
距離的にも意識の面でも南米から遠かったし東京からも遠い、
所詮、地方都市に過ぎない。

愛知県では2つの人材派遣会社が事務所を無償で
提供すると申しいれてきた。
別なある団体も支援を約束してくれた。

海外在住の日本人の人権問題をアピールするために立った北原が
南米からの出稼ぎ就労者の人権問題を取り上げるのは必然のなりゆきであろう。

「自治体に出稼ぎ就労者の問題を相談に行ったら
『南米に帰した方がいいんじゃないですか』と剣もほろろでしたよ」
と嘆いていた林田社長。

所詮、付け焼き刃の辻説法に空しさ

「目の肥えたシルバー世代が夜、ゆったりと
オーップンカフェでコーヒーを楽しんだり
ウインドーショッピング出来る様な洒落た商店街作りが必要だ」

「周辺市町村の過疎化にストップをかけるのが難かしい以上、
交流人口(観光客)を増やす方法を考えた方がいい」

「それも点としてでなく面として…」

「これからの政治家は地元の特定業界団体の利益を図るために
道路を造ったり、ハコモノを作るのでなく地域発展のための戦略的な
企画を真剣に考えるべきだ…」等々…。

辻説法も場を重ねてくると世代別、
男女別に何を話せば受けるかということが段々分かってきた。

辻説法をしながらも北原は自分の言葉が
所詮、付け焼き刃でしかない事に
空しさを感じ、次第に嫌悪感を覚えてきた。

如何に北原が熊本の発展のために熱弁を振るおうと
26年振りに帰ってきたよそ者、浦島太郎に過ぎない。

また、北原も海外日系社会の重要性を内外に訴え、
その活用を図るために全身全霊を傾注している以上、
自分の地盤は海外日系社会だ、という意識を拭いきれない。

「熊本の発展のために…」と言う言葉に今一つ真実味が
足りないのもヤムを得ない。

熊本で活動して暫く経ってから愛知県の人材派遣会社の
林田社長から電話が入った。

駅前商店街をシルバーの原宿に

ある人が北原に「もっと地元に関係ある話題を訴えた方がいいのでは…」と、
アドバイスした。

北原は梅雨が明けたら県内を幟を立てて自転車行脚しようと考え、
道路状況把握のため周辺市町村を路線バスで回った。

北原が居た26年前に比べて県内のあちこちに高速道路が出来ていた。

それに比べて周辺市町村の寂れ様が気になった。

それになにより日本の道路は、車優先で自転車が走れるような余地は
なく危険極まりなかった。

自転車行脚は取り止めた。

バス旅行から帰って見聞した周辺市町村のこと、
市内商店街の衰退ぶりを辻説法の時の話題にした。

これには確実に聴衆の反応があった。

皆一様に聞き耳を立て、時には同意の拍手も起きた。

「全国3千数百ある市町村の3分の2以上で過疎化が進んでいる。
交通が便利になることは周辺市町村の過疎を促進する。
郊外の大型ショッピングセンター栄えて駅前商店街が寂れる」

「駅前商店街は人口が減っていく若者を対象にするよりも数も多く、
お金も持っている中高年層を対象にすべきだ」

「駅前商店街をお年寄りの原宿たる東京のトゲ抜き地蔵で
有名な巣鴨のような商店街にしてもいいのでは…」




正論は口に苦し

「中南米を切り捨て、アジア、中国一辺倒になることの危険性」

「グローバルグローバルと唱えながら、日本は未だに江戸時代以降、
精神的な鎖国体制から脱し得ていない」

「政治家にとって国際問題や外交が選挙で票にならないから
誰も真剣に取り組まなかった。そこにあのムネオさんが外務省を牛耳り
ODAを食い物にしてきた。今の選挙制度が続く限り
国際関係に精通した政治家は生まれない」

「東の千葉、西の熊本が金権選挙の双璧といわれる風土をなくそう」

「生まれた時から有り余るモノに囲まれた生活を過ごしてきた若者たちよ。
何もない途上国でボランティア活動に励もう」

「活力に満ちたシニア世代も数十年の人生で蓄積した経験技術を
途上国で活かそう」等々…。


これらは確かに正論ではあるが聴衆の反応は今一つ鈍かった。


熊本のデパート前で辻説法を行う


ーとは言え、日本国内の新聞、週刊誌は同業のよしみか、
この南米パラグアイのドン・キホーテ北原の訴え
「在外日本人選挙権問題」を異例の扱いで大きく取り上げた。

10月、沖縄で行われた「世界ウチナンチュー大会」に
出席した北原は、郷里、熊本に戻り選挙事務所を立ち上げた。

熊本市では、高校のラグビー部OB会、友人、
知人関係を中心に後援会作りに励んだ。

晩秋の熊本にも冷たい北風が吹くようになった。
同市中心部で初めて辻説法をする時には、さすがに勇気がいった。

だが、一旦、ハンドマイクを持ち、通行人に話し始めると度胸が座り、
いくらでも大声で話す事が出来た。

同市一番の繁華街のデパート前に自転車を止め、
その自転車に「草の根海外日系ネットワーク・北原ジロウ」と
青地に白く染めた幟をくくりつけてその前で辻説法を行った。


北原は勢い込んでマイクを握ったものの地方都市の人たちに
何をアピールするかで頭を悩ました。

物理的にも意識的にも海外と縁遠い熊本で
海外日系社会の事を話してもピンとこない。

やむなく最初は傍目八目という言葉があるように
次の様な海外から見た日本の問題点を話した。

「皆さんの税金であるODAが海外で
ドブに捨てられているのをご存じですか?」

大都会ロスで鬱状態に陥る

ロスで北原は初めてやや疲れを感じた。
胃がもたれるというか、食欲がなくなった。

これまでの人生の中でストレスなど一度も味わったことが
ないのが北原の自慢だった。

今回の立候補宣言行脚も天命として愚直にどさ回りを続けてきたが、
初めてすべてが空しく思われた。

疲れているのかも知れない。

これが一般にいうストレスだろうか?

北原は25年前のパラグアイ移住以来、
ハイテンションのボルテージで今日迄突っ走って来たが、
こんな空しい気分、鬱状態になったことは1度もなかった。

ロスで表敬訪問する予定だった現地日系の有力者は訪日中で会えなかった。

ブラックホールのような大都会ロスで北原のエネルギーも
吸い取られたかのようだった。

ロスでノアの仲間、寺岡夫妻と再会

ここロスには、「ノアの方舟」ならぬ泥舟に乗ってパラグアイの
イパカライファームで一緒に暮らした寺岡和人夫妻が住んでいる。

夫人の佳津子さんは「マァマァバァちゃん」の娘である。
主人は北原より7、8歳年下の建築設計士だ。

夫妻は当時、3、4歳の可愛い由利ちゃんを連れて東京から
イパカライファームにやって来た。
寺岡夫妻はファームが崩壊して間もなくアメリカに再移住した。

今では当地で建築設計事務所を開き、日本向けにツーバイフォーの
建築資材を輸出するとともに、日本国内で実際にツーバイフォーの
建築も手掛けており事業も順調のようだ。

北原は寺岡夫妻と一夜、夕食を一緒にした。

案内されたのは、リトル東京に隣接した寿司屋だった。
えらく繁盛している店で、暫く待たされた。
客のほとんどがアメリカ人だ。
彼等がカウンターで寿司をつまみワイワイガヤガヤ飲み食いする様は、
全く日本の寿司屋と変わらない。

北原と寺岡夫妻とは8年振りの再会だった。

8年前、1993年2月26日、ロスの寺岡の家に泊まった北原は、
翌朝のテレビニュースでニューヨークの世界貿易センタービルが
爆破された衝撃的な映像を目にした。

あの時も言い知れぬ因果関係を感じた。
寿司屋での話は尽きなかった。
当時の仲間の消息、お互いの子供たちの事、
あの幼かった由利ちゃんが今秋結婚するという。

棄民たちの哀歌

国や街にはそれぞれ独特の匂いというか風合いがある。
そしてそこに暮らす人たちもその土地の色合いに染まっていくようだ。

1世移民たちの後を継いだ2世、3世たちは欧米人たちの中で劣等感、
優越感などをないまぜにしながら必死に自分達のルーツを探り
やがて納得して「日本」という伝統文化の中に密かな誇りを見出していく。

「棄民かと嘆きし父の仏壇に 在外選挙の登録証を供う」

どこの国の移民も悲しい匂いが染み付いている。

これは岐阜県県知事賞を受賞したブラジル在住の寺尾芳子さんの歌だ。

アルゼンチンのブエノスからサンパウロ、ニューヨーク、
サンフランシスコ、バンクーバーと無数の移民たちの様々な思いが
ズシリと北原の肩にのしかかり重い旅となった。

ここバンクーバーで10月18日から21日まで、
北原が会長を務めている世界日系新聞協会の
第28回新聞大会の開催が予定されている。

今回の訪問はその下準備を兼ねてもいた。