「新・ノアの方舟」始末記 -9ページ目

カチンときた北原が一席ぶつ

カチンときた北原が手を挙げた。

「各国の日系人二世、三世には優秀な人材が輩出しているのに
彼等を昇進させないから、優秀な日系のエリートたちは、
アメリカ企業やドイツ、イタリア企業に就職している。
これは日本の進出企業にとっても日本国内の企業に
とっても大変な人材流出です。
そういった日本の閉鎖性を改めない限り日本の飛躍はありません。
在外選挙権然り、在外原爆被爆者問題然り、
それらの問題を打破したいと思って海外日本人を代表して
次期国政選挙に名乗りを上げようと準備をしています」。

「……」一瞬、ジャパンクラブの席上にシラ~とした空気が流れた。

昼食会終了後、各社のトップに北原は名刺交換を求めたが、
「いや、名刺をきらせまして……」と逃げる人が2、3名。

北原も(なにも資金カンパなど要求しないよ。バ~カ!)と苦笑した。

「連中、欧米人には卑屈な位ペコペコするくせに日系人に対しては、
実に横柄なんですよ。
北原さんがガツンとかましてくれたのでスーっとしましたよ」と、
国際期間に数十年勤務しているベテランの川田さんが帰り際、
そっと北原に語りかけてきた。

メキシコの田中眞紀子さんの辛らつな質問


27日、ニューヨーク在の日本企業代表者で構成されている
「ジャパンクラブ」から代表者のみ昼食のご招待を受けた。

日本を代表する有名企業の現地トップたちがズラリ居並ぶ中で
昼食懇談会が開かれた。

さすが、ニューヨーク、日本の懐石弁当に引けをとらぬ立派な弁当が
北原たちの前に並べられた。

昼食の前に簡単な挨拶交換があり食事となり、その後、
コーヒータイムで質疑応答が行われた。
最初は差し障りのない経済情勢等についての応答が行われた。

やがてメキシコのロベルト・橋本会長の妹、
マルガリータ・橋本さんが手を上げた。

司会の川田さんが、「この人はメキシコの田中眞紀子と言われています」
と紹介して皆をどっと笑わせた。

メキシコの眞紀子さんの質問はさすが辛辣だった。

「こちらに進出している日本企業はなぜ優秀な
日系二世三世を抜てきしてリーダーに取り立てないのですか?」

「いや、どうぞ…」

「いやいや、あなたから答えて下さい」と、
誰がこの回答をするかでもめるジャパンクラブのお歴々…。

「我々日本企業としてはものの考え方や経営理念等で
日本文化をしっかり理解しておられる方でないと……」
何とも歯切れの悪い回答だった。

ニューヨーク、ニューヨーク!


「第11回パンアメリカン日系人大会」が、
7月25日~28日の4日間、ニューヨークの
マンハッタン、ルーズベルトホテルの大会議場と小会議場で開催された。

パラグアイから北原を含めて17名が出席した。
この大会は北米、中南米の各分野で活躍する二世、三世の
リーダーたちが日系人としてのルーツの確認、情報交換、
結束を呼びかけて始まったもので第1回大会で
メキシコのロベルト・橋本氏が会長になった。

同会長は「良き市民になろう」という大会スローガンを提唱し採決された。
本大会は3年ごとに開催国持ち回りで行われてきた。

本大会には、カナダ、北米、中南米、日本から約400名が参加して
「過去を思い起こしてより良い未来を築こう」との大会スローガンの下、
「貿易ビジネス」「日系人問題」「開発プロジェクト」「医学」の
各部門ごとに分科会が行われた。

大会前夜には、「ハドソン河夕陽観賞クルージング」が
行われライトアップされた自由の女神やマンハッタンの
超高層ビル群を心ゆくまで観賞した。

この40数日後の9月11日に、あの世界貿易センタービルが、
木っ端微塵に破壊されるなど誰が想像出来ただろうか?

この時、ニューヨークはまだ平和な我が世の春を謳歌していた。

「担ぐ神輿が出来た」と喜ぶ赤城編集長


翌日、アルゼンチン報知新聞社を訪ねた北原は、
金城社長と赤城編集長と昼食を共にした。
食事をしながら来意を告げると二人は目を輝かせた。

「いや、ここでも在亜日系有権者会というのがあり、
選挙登録の呼びかけや投票に行くように啓蒙しているんですが、
『誰に投票していいか分からないし、手続きも面倒だから棄権する』
という人も出ており、我々の運動も暗礁に乗り上げていたんですよ」

「それはいい、担ぐお神輿が出来てもう一度啓蒙運動に弾みがつく。
平田会長に会ってもらいましょう」在亜日系有権者会の総務担当理事を
やっている赤城編集長は大喜びをした。

この赤城編集長は、拓大OBで現地ラジオやテレビ等の
コメンテーターとして、また俳優もやっているという多彩な熱血漢で
現地社会でも名前を知られた人物である。

年齢はもう70歳はとっくに過ぎている筈だが
まだまだ枯れる気配は微塵もない。
毎日アルゼンチン報知の社説に健筆を奮っている。

何でもその事務局は新聞社に置いているとのことだった。

在亜日系有権者会の平田会長は在亜叙勲者会の会長も務めている
アルゼンチン日系社会の長老である。

早速、北原が宿泊しているホテルで会うことになった。

赤城編集長に伴われて来た平田会長は、
話を聞くと「積極的に応援しますよ」と明言した。

同夜は何でもブエノスで開催されるNHKのど自慢大会の
打ち合わせが沖縄県連会館で在亜日系団体連合会の打ち合わせが
あるということで北原は赤城編集長と一緒にその会合に出た。

寒い夜だった。

会館には既に関係者が2、30人集まっていた。

在亜日系団体連合会の太田会長の許可を得て北原は参会者に
国政選挙出馬の趣旨を手短かに説明した。

大きくうなずく人々を見て北原は確かな手応えを感じた。


世界中の日本人の心の中に日の丸がはためいている!

北原は、日本で最大のNGO団体である「ガイアの森」の
パラグアイ総局の会長をしていた。

このNGOは、30数年にわたりアジア、オセアニアを中心に
マングローブの植林をしたり、農業指導を行っていた。

南米ではブラジル、ウルグアイ、パラグアイに
ガイアの森インターナショナルの総局が数年前に次々出来た。

南米に総局が出来たことにより「ガイアの森」は、
世界のNGOをランク付けしている国連のカテゴリーAに認定された。

カテゴリーAに認定されている代表的なNGOに赤十字がある。
アジアでカテゴリーAになったのはガイアの森が初めてだった。

ガイアの森インターナショナルのそれぞれの総局は独立採算制で
本部からの支援は何もなく各総局が独自に会員を集めてプロジェクトを
計画して活動を進めている。

アルゼンチンでは、このアルゼンチン拓殖組合がガイアの森
アルゼンチン総局の役割を果たしている。

10数人の錚々たる理事が集まった席で紹介された北原は、
「実は、海外日系人を代表して次の衆議院選挙に出ようと考えています」

「ん……?」一瞬、沈黙が場を覆った。

あまりに常識外の発言だったので思考が混乱した様子だった。

北原はなぜ日本の国政選挙に出馬を決意したかという経緯を説明した。

「日本の人々は全く海外日本人の現状を知らな過ぎる」

「やがて来るであろう食糧危機を救うのは世界の食糧基地南米である。
食糧自給率が先進国で最低の日本はもっと南米の重要性を認識すべきだ」

「この南米には百数十万もの日本人移民が営々として築いた
それぞれの土地に日の丸の旗がはためいている。
これら百数十万もの日系人がかち取ったこれらの土地は戦車や大砲で
奪ったものではない。日本政府は彼等の心の中にはためいている
日の丸を知っているのか!」

「世界中に300万人を超える日系人のパワーと各国に於ける
日系人のステイタスを日本はもっと活用すべきだ」

北原は滔々と持論を披露した。

やがて歓迎会はすき焼きパーティーに代わった。

飲んで食べる内に場も盛り上がり「積極的に応援しますよ」

「最近の日本はどうなっているのか、情けない」

「海外日本人パワーで日本を叩き直せ!」

「世界日系人連合会を作って日本にプレッシャーをかけよう!」と
ブエノスの夜に怪気炎が燃え上がった。

タンゴの街、ブエノスへ


北原がサンパウロを7月18日午後18時の便で発って
アルゼンチンのブエノスへ着いたのは、夜21時半だった。
空港の外は寒風が吹いていた。

外でタクシーを待つ間、冷たい南の風が顔や首筋に突き刺さる

。サンパウロは猥雑な活気がある街だが、ブエノスアイレスは、
南米のパリと言われただけあって気障でクールなパッションが漲っている。

北原はブエノスには何度も来ているが、
来る度に男心をくすぐるラ・クンパルシータやエル・チョクロ、
ジーラジーラなどのアルゼンチンタンゴの旋律が
身体の内側から蘇り胸が妖しく高鳴る。

恋のためなら命を捨ててもいい、理想のためなら生命を賭して戦う、
という狂気にも似た熱いラテンの血が暗く淀む憂愁の街ブエノス市内の
ホテルへタクシーで向かった。

アルゼンチンで初期移住者の受け入れ業務を行ったのは、
アルゼンチン拓殖組合という団体だった。

その後、移住業務は、世界協力事業団に受け継がれた。

翌夜、その拓殖組合の高田会長が理事を集めて北原の歓迎会を催した。

高田会長にはサンパウロの関係者から
「北原氏が訪問します。訪問目的は本人から聞いて下さい」
という簡略過ぎるFAXが届いていた。
高田会長は詳しい事は分からないながらも理事を召集した。

サンパウロの夜に谺する怒濤の狂乱壮行会

北原は、これまで年に何回かサンパウロを訪れ
地元邦字新聞社記者たちとも顔なじみになっていた。

記者、編集者、後援者たちとガルボンブエノの居酒屋で
酒を酌み交わしながらの旗揚げ雑談壮行会が行われた。

「自民党の公認、推薦が先決だ~!」

「どうせ通りゃしないんだから、無所属で立って政府の外交政策、
日系社会に対する無為無策をガンガン攻撃しろ!」

「移住者が立候補したって単なる変人、
泡沫候補に終わるんじゃないですか?」

「日本の無党派層の若者たちが目を向けるようなアピールが何か欲しいな」

「自民党の南米支部をサンパウロに作ろう!」

「高崎幹事長とは早稲田柔道部の先輩、
後輩のポン友だって言ってたな~お前、絶対に幹事長に紹介状を書けよ!」

「お前じゃ~迫力ないよ~、俺が立候補してやる~」

「ばかやろ~、俺は命をかけてんだ~!」

「てめぇ~!」

アルコールが回ってくると盃が宙を飛び交い、
怒声、罵倒、取っ組み合いの大狂乱となった。

日系のオカミは目をつり上げ、ブラジル人女店員は
「他の客に迷惑だから出ていってよ~!」
「警察を呼ぶわよ~!」と
金切り声を上げて散々な壮行会となった。

古武士的な選挙参謀 奥野氏

「最初話を聞いた時は気違い沙汰だた思ったよ」と其邦字紙のOデスク。
じっくり北原の話を聞いた後、「いけると思うよ」と変わった。

「新聞社としてはドン・キホーテにはなれないんだよな」と
言いながらも「北原氏はドン・キホーテになると言う。
彼の決意は『さて、お前たちはどうする…?』と
我々に突き付けられた刃である」とコラムに書いた理論派のY編集長。

幸いサンパウロでは地元の邦字紙ブラジル日報とサンパウロ報知の
社会面トップに「北原氏次期衆院選に出馬表明」と大々的に報じた。

北原は、サンパウロでは地元日系社会の御三家たるブラジル日系人協会、
ブラジル移住者協会、ブラジル福祉協会をまず表敬訪問して
立候補の趣旨説明をした。

ついで沖縄を含む九州の各県人会を軒並み訪問。
ほとんどの県人会会長が積極的な支持を表明してくれた。

サンパウロ報知新聞社の入っているビルの7階を後援会事務所として借りた。

選挙参謀には在外選挙実現に奔走してきた元移住者協会会長の
奥野弥太郎氏になってもらった。

奥野氏は昔の東映時代劇に登場する一徹者の古武士的な雰囲気をもっている。

同氏は在外選挙の動向に人一倍関心を持っており、
海外から名乗りを上げた場合の具体的な戦略を持っていた。

あまりに専門的な資料を持っているので思わず北原は
「奥野さんが立候補されたら如何ですか?」と聞いた。

「いや、私はブラジルに帰化していますので…」
ちょっぴり残念そうな気配が見られた。

日系社会に顔の広い事務局長も決まり、パソコン、電話、机と用意し、
半日勤務のアルバイト職員も雇う事にして事務所オープンは8月1日とした。

まず、サンパウロへ飛ぶ

勝手に国会議員選挙に立候補するとオダを上げた所で何の効果もない。
北原は早速、パラグアイの日系社会を代表する
日系5団体の推薦状をもらった。

その推薦状を持って各国の日系諸団体の協力を仰ぐことにした。

7月10日、アスンシオンを発って、サンパウロ、
ブエノスアイレス、ニューヨーク、サンフランシスコ、
カナダのバンクーバー、ロサンゼルスとどさ回りをして
8月10日東京に着いた。

まず北原は、隣の国、サンパウロを訪問した。

北原の出身地である在伯熊本県人会の役員会に出席し、
「次期衆院選に立候補したい」と述べた後、
当県人会のY副会長が北原を紹介するため挨拶に立った。

「………!」
Y副会長立ったまま暫く声が出ない。

北原が見るとウッスラ涙を浮かべている。
感動で喉がつまって声が出ないようだ。

「北原さんはとても苦労した人なんです。
原始林に挑戦した初期開拓者たちや二世の様々な問題も
よく分かっている人です」

Y副会長は、北原の苦闘期、仕事の関係でアスンシオンに
2、3年滞在していたことから北原がパラグアイに移住してきた
いきさつもその後の経緯もよく知っていた。

北原も一瞬、目頭が熱くなった。

「熊本には友人親戚も大勢いるから選挙の時は駆け付けるよ」と
ブラジリアの日本大使館を退職して今は悠々自適のTさん。

優子に打ち明ける

「ヨッシャーッ!」と覚悟を決めたのはいいが、
北原にとって最大の難関は、如何にして優子に打ち明けるか?
ーだった。

様々な難関をクリアしてきた北原だったが、
優子に新たな苦労を強いるのはさすがに辛かった。

何しろ「パラグアイに行く」と25年前、打ち明けた時、
2人の幼い子供を連れて何も言わずついて来てくれた妻である。

打ち明ける場所とタイミングを計った。

ある日、さりげなく彼女のお気に入りの
グランホテルパラグアイのレストランで昼食をした。

昼食後、プールサイドの椅子でコーヒーを飲みながら
「実は…」と打ち明けた。長い沈黙があった。

「お金はどうするの?」ポツリと聞いた。

「金は天下の回りもの…」超楽観主義の人生哲学を滔々と
北原は、まくしたてた。

「それにこれは天命だから…」と、
新宿歌舞伎町のパチンコ屋での啓示、
それにジワジワと押し寄せてきた思いなどを話した。

「マ、いいか。子供たちも大きくなったし、最悪の場合、
あなたと二人でチャコでインディオ生活か、
隅田川堤防でホームレスでもやるか!」
いつのまにか信じられない程、
たくましくなっていた優子に北原は胸が熱くなった。

OK、人寄せパンダのドン・キホーテ役をやってやろうじゃないか!

北原はこれしかない「白い道」を歩く覚悟を改めて噛みしめた。