野蒜駅の無残な姿に衝撃

  ⑴ 野蒜駅の無残な姿に絶句!!

   野蒜駅の惨状は痛ましいものでした。

   この駅は子供の頃に何度も海水浴に来た思い出深い駅です。

   津波の襲撃で駅舎はがれきで埋め尽くされ、内外の壁は泥やヘドロですっかり

   汚れていました。震災前年の秋、筆者が所属しているサークル「生涯現役塾」

   のリクレーションで訪れたときには、しゃれた感じのきれいな姿でした。右隣

   のお土産屋で買ったビールは、乾いたのどに沁み込んだっけ…など思いにふけ

   りながら、寂しい思いで見つめました。


 

   プラットホームの惨状にはさらに衝撃でした。

   え~っ!と、思わず声を出したくなるほどの惨状です。

 

  ⑵乗客の生死を分けた列車の停車位置と運転手の判断

 

   上り仙台方面1462S普通列車と下り石巻行き3353S電車、どちらも野蒜駅を発

  車してすぐに津波襲来の連絡を受けて緊急停止しました。
   上り列車の乗客たちは、マニュアルに忠実な運転手の指示に従い、電車を降り 

  指定避難場所の野蒜小学校に避難しました。ところが野蒜小学校は津波の直撃を

  受け被災し、上り列車の乗客の数名は命を落としました。

 

   一方、下り列車はたまたま高台の位置に止まり、やはり指定避難場所野蒜小学

  校へと誘導しようとする乗務員に、元消防団の乗客が「ここは小学校よりも高台

  にある。ここにいるほうがいい。それに歩いて避難したら途中で津波に遭うかも

  しれない」と提言しました。運転手はマニュアル遵守と助言に葛藤したそうで

  す。マニュアルを守らずに被災する可能性もありますが、運転手は最後は「電車

  の中で待ちましょう」という乗客の意見を聞き入れました。そして命が助かりま

  した。下り列車は幸運にも高台に停車し、究極の状況判断で修お客は全員無事生

  き残りました。

  上り列車は指定避難場所である野蒜小学校が津波に襲われ、犠牲者が出てしまっ 

  たのです。

  筆者が脱線現場を見た事故

   3月18日、筆者が野蒜駅から東名へ向かって600m程行った地点で、列車が

  脱線してL字型に曲がったている事故現場に遭遇しました。その光景のすさまじ

  さに唖然としましたが、この列車の乗客は停車時に全員野蒜小学校へ避難しまし

  た。ただ、上記のようにその中の何人かは犠牲になりました。

 

  


 

 

 

   JR東日本はこの仙石線や常磐線などでの被災を教訓に、2012年1月、次の「津

  波避難行動心得」を策定しています。

 ⑴大地震が発生した場合は津波を想起し、自ら情報を取り、他と連絡がとれなけ

   れば自ら避難の判断をする(避難した結果、「津波が来なかった」ということ

   になっても構わない)。
 ⑵避難を決めたら、お客さまの状況等を見極めた上で、速やかな避難誘導を行う。
 ⑶降車・避難・情報収集にあたっては、お客さま・地域の方々に協力を求める。
 ⑷避難した後も、「ここなら大丈夫だろう」と油断せず、より高所へ逃げる。
 ⑸自らもお客さまと共に避難し、津波警報が解除されるまで現地・現車に戻らな

   い。

  現在JR仙石線は、ルートを一部高台へ移して、全線で運行を再開しています。

  

 避難場所野蒜小の惨状と体育館の悲劇

   野蒜駅の惨状と脱線電車の凄まじい現場を目の当たりにしたためか、すっかり

  気力が奪われ、とぼとぼと惰性的な歩きでした。“だがこんなことで気落ちしては

  いられない!”と、せて野蒜小学校へむかいました。

  野蒜小は、海岸から約1・3キロ内陸に位置しているので、市指定の避難場所でし

  た。しかし東日本大震災時、高さ約3・5メートルの津波が襲い、体育館に避難し

  た約340人の生徒と住民のうち13人が犠牲になりました。

   この情報を鮎川避難所でラジオいて聴いていたので「ぜひ被害状況をこの目で

  確かめ、後世に伝えなければならない」と、気持ちを引き締めて向かいました。

 

   小学校は予想した通り、校庭や体育館前にはがれきや車が山積していました。

  たまらなく悲しい現実です。

 

  

 

   何人かの人が校舎から出てくるのが見えます。

  野蒜小は震災後、避難所になって多くの住民が避難していました。

  徐々に別な避難所へ移るとのことでしたが、訪れた日にはまだたくさんの人がい

  るようでした。

  筆者が立ち寄った3月17日には、体育館は遺体安置所になっていました。

 中へ入れないので体育館の近くで慰霊させていただきました。  合掌