意味というもの | つじまる備忘録。

つじまる備忘録。

今日もゆくぞ!卓球番外地。とあるペンドラの孤高なる記録。

 

卓球を約20年ぶりに再開した4年前の2016年頃。

元卓球部の同級生。地元の友人と中学時代を懐かしむが如く

地元の体育館にて卓球台を前にラケットを振っていた。

フォア、バック、ツッツキ、切り返し、フットワーク。

その昔、部活練習でやった一連のことを終えると

オール。そして当然のようにゲーム練習を始めた。

 

得点したり失点したり、ゲームで勝ったり負けたりした時である。

失点した友人は激しく悔しがり、負けたら落胆。

得点したら雄叫びを上げ、勝ったら両手を上げて喜んだ。

至って自然。至って普通に人間がとる行動であるが。

私はこの時、妙な違和感を覚えた。

 

なぜ「勝ち」に喜び、「負け」に悔しいのだろう…

球が規定数、台の中に入ったか入らないか、

またそれを相手が取れたか取れなかったかで

凡々たる素人がそこまで感情移入する価値があるのだろうか。

また「勝つ」ことで何を得て、「負ける」ことで何を失うのだろうか。

誰だって自分の行動が成功したら嬉しいし、失敗したら悲しい。

それは当然の事として、「勝負」というゲームの中に入った途端

否応なく生じてしまう「勝ち」と「負け」は一体なんなのだろうか。

 

勝負とは…

我がつじまる財団が総力を挙げ検索してみた所、意味として次のようにある。

勝ち負け。勝ち負けを決めようと争う事。

またそういうわざ、~の世界。

ここ(これ)で決めてしまおうという態度をとること。

 

 

「待ち負け」、「勝敗」は必要なのか

 

スポーツは主に勝負をする。

勝ち負けを付けることが重要な要素として一般的には考えられている。

勝敗という結果において、「得られるもの」があるということ。

脳内で分泌される「幸せホルモン」の量を競う勝負事である。

競った末に勝ち取った「幸せホルモン」を楽しいと考える「勝負の機能」を好む人。

プロ選手や競技者においては、勝敗結果が自身のプレーヤーとしての存在価値となる。
 

戦いとはスポーツにおける「勝負の論理」に先んじて存在する実在性である。

これは、なにかのために戦うといった目的や理念を持つような戦いではない。

ただ単に無意味に戦うのである。 意味のない無意味 。(※参考文献より)

 

くれぐれも言っておかなければならないのは

勝負、勝敗やそれに関する事柄を否定しているという事ではない。

物事の考え方や価値観は人それぞれだ。

今回は自分の中で純粋に沸き上がった疑問を整理する意味合いもある。

そして私があの時感じた違和感は、何なのかを知りたい。

勝負というものは…

 

「勝負や競技」に私自身を照らし合わせてみると…
勝っても負けてもその勝負結果で得るものは無い。
また自分の生活環境において、家族や近しい友人知人に称賛されることもない。
しかし勝負する過程で技術の改善点や上達へのポイントに気づく事もある。
公的な試合に出ることが不可能で、今後もずっと出場する機会がない。

卓球競技に費やす時間と労力と情熱は、本業である仕事に向けるべきだ。

 

突如として現れたもう1人の私が私自身へ言う。

何を言ってんだ、この薄汚ぇ~ひょっとこ野郎が!

お前ぇがその論理とやらで卓球勝負に価値や意味が生まれねぇ~と言うのなら

お前ぇが日頃やってる卓球用具を買ったり愛でたりしてるんだって意味のねぇ事じゃねぇか、

それにそれは寧ろ浪費だし、マイナスだろうが!このチョビヒゲ野郎ッ!

 

あのよ、例えばな、菖蒲の花言葉だってよぉ~

「情熱」「心意気」「嬉しい知らせ」「優しい心」「優しさ」なんてぇ意味があるんだぜ、

勝負の世界もよ。情熱や心意気、相手に対するリスぺクトでよ、

優しいハートがインポータントなんだぜ。意味があるとかねぇとか、どーでもいいぢゃねぇか。

そんなつまんねぇ事いってねぇで、にーちゃんよ。どうだい?俺と一杯呑もうじゃねぇか。ん?

 

いや、密ですから。やめときます。

それにあなた息がくさいですよ。

 

しかし、あの島田紳助も常識を異を唱えるという事で人は考えると言っていた。

人の価値観は別々、それぞれの考えでそれをしょうもないもんだと思うと。

人の思う価値や意味は人それぞれだ。良いか悪いかの二言論でもない。

あーだこーだと考えた末、最後に辿り着くのは、立川流家元、立川談志の言葉。

 

 

所詮、人生は暇つぶし。

人間と言うのは死滅すべき動物だったのが、知恵と偶々好奇心があった。

それから安定が無いから、疑似安定を安定と錯覚してどっかへ求める。

スポーツであるとか、芸術であるとか、国家であるとか、または家庭であるとか、

宗教であるとか…(中略)

どんな陶器を持って来たって、どんな絵を持って来たって、どんな芸をやったってね、

所詮、死までの暇つぶしです。

好奇心があって不安定であるから、その時だけでも安定してやろうかと思っているんでしょう。

疑似安定です。えぇ、全部、暇つぶしでございます。

えぇ、それで暇つぶしをするために何処へ自分を帰属させるか。

ひとつじゃないですよ…(中略)

だからどんな学者が、どんな偉い人が分解して、その事が正しくても

世の中の流れなんてまったく変わらない。全部、好奇心に流されて行くだけです。

 

好奇心を止めるのは、恐怖心しかない。恐怖心はデータしかないんだけど。

その好奇心を止める恐怖心ってものを、また文明で無くしていますから

えぇ、文明という流れる所における好奇心においてね。

それでその好奇心っていうものをドンドン倍増してますからね。

所詮、行き着く時しかないでしょうね…(中略)

 

今更ここで以て、自己の幸せの基準を言えとか言いますけどね。

どーってことはないな、面白半分じゃないですか。暇つぶしだと思ってると楽ですよ。

人生の意義なんて無いよ。

え?お前、今まで喋ってきた意義がお前も無いってことか?

そうですよ。無いんですよ。無いとわかりゃいいんです。はい。

 

私が思うに、すべての答えはここに詰まっている。

 

 

 

※参考文献

 「勝負の論理」 → 勝負とは決断である。

 

※参考文献

勝負の論理から戦いの論理へ「意味のない無意味」から考えるスポーツ原論