日本の古墳時代から平安時代までの間に運営されていた製鉄コンビナートは最大のものは琵琶湖の南東部にあったマキノの鉄鉱山とその周囲の製鉄遺跡である。
現在は立命館大学の校舎の地下に遺跡は保存されている。
奈良時代の恵美押勝の乱で有名な彼は天皇からマキノの鉄穴を賜ったという記録が残っている。
ここで製鉄が大々的におこなわれていたがその時代は白村江の戦いで日本の水軍が唐と新羅の水軍に大敗を喫した663年以後のことと私は推測する。
この時代鉄は最重要の戦略物資で国家の最大の武器原料でありこれが国内で自力生産できないと侵略を受けたときにひとたまりもない。
白村江の大敗のあと日本は唐と新羅の侵略を受けるかもしれないと国内には衝撃が走ってただちに国内で製鉄を大々的にやろうという気運が満ち満ちた。
そのときに一大製鉄コンビナートが作られたというのがわたしの推理である。
恵美押勝はなぜ天皇からその鉄鉱山をもらったかというと唐との関係が改善して中国の鉄がどんどん再輸入されるようになったからに違いない。
中国は古代では鉄の一大生産国でどんどん対外輸出していたことは有名である。
明の時代まで鉄の輸出国だったことは有名である。
中国の周辺国は中国との関係が悪化したとき自力で製鉄に励み、それ以外の時代は輸入に頼っていたことは明らかである。
日本も全く同じで奈良時代と室町時代と安土桃山時代に製鉄法の変革が起きたのはそういう中国との関係悪化が原因である。
唐、元そして秀吉の朝鮮侵略でおきた明との関係悪化がそれである。
奈良時代は正倉院にその時代の刀が、室町初期は古刀の鋼の変化が、そして慶長の新刀の出現がその証拠である。
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