九州酒蔵紀行①~三河守に降る闇~ part.19 | 道草days

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※2018/4/1のお話です。

 

 

 

最後は城の東の端へ向かいます。

 

 

岸岳=鬼子嶽。

 

古来この山には鬼が住んでいたという。ここでいう鬼というのは体制(大和朝廷)に従わない者を指す。

 

そんな古くから城として使われてきた山を居城としたのが松浦党の波多氏。

 

上松浦党最大勢力として長年に渡って東松浦半島を治めてきた一族はお家騒動を経て17代当主となった波多親(肥前有馬氏からの養子)以降、外からの様々な干渉を受けるようになる。

 

松浦氏(平戸氏)、龍造寺氏、島津氏、豊臣氏と従属し、時勢を読み生き残った波多氏は遂に豊臣政権下で三河守の官職と豊臣姓を賜り、肥前岸岳8万石の大名としてその名を列したのである。

 

しかし、ここから運命の歯車は大きく動き出してしまう。

 

天下統一を果たし、大陸侵攻を掲げた豊臣秀吉は取次・寺沢広高の進言を受け、波多氏の領地・肥前名護屋にその拠点を設けた。

 

唐の津と呼ばれてきた同地は壱岐、対馬と経由して朝鮮半島へ至る航路を持つ最適地。だが、波多氏にとっては領内に太閤の巨城がある事は大きなプレッシャーになる…同地は不向きとでは?と進言したが聞き入れられず。文禄の役を控え博多着陣した際にも遅参し、秀吉の心証を悪くしてしまう。

 

決定的となったのが文禄の役。鍋島氏の与力として朝鮮に渡ったが、勝手な行動が目立ち、更に卑怯な行為をしたとして召還を命じられ帰還するも弁明も許されず改易。常陸国筑波に配流され波多氏は滅亡したのでした…。

 

 

 

城の東の端にある巨石・姫落とし岩。

 

 

城主の戻らぬ岸岳城では主君の後を追い家臣多くが切腹。

 

 

波多氏にかわって唐津に入封した寺沢氏による残党狩りもあり、女子供はここから身を投げたそうです。

 

 

強い光(秀吉)が生む闇。寺沢氏と唐津城に光が当たり、波多氏と岸岳城は闇に飲み込まれてしまったってわけですね…。(`・ω・´)

 

 

 

 

最後に岸岳へ向かう途中に見た波多八幡宮という神社によってみた。

 

 

もし波多氏が改易されてなかったら…岸岳城は、名護屋城は、唐津城はどうなっていたか?

 

 

春の日の唐津、歴史のifを求めるamelloshに桜はそっと微笑みかけるだけなのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~おしまい~