母を亡くし、こんなにも「お母さんお母さん」と嘆いている私ですが、私はまさか自分がこんなにも母の死を引きずるなんて思っていませんでした。

そもそも母が死ぬ日はもっともっと先の未来に起きる出来事だと思い込んでいたし、看護師として何十人、何百人もの患者さんを看取ってきた私にとっては、その時がきてもきっと冷静に受け入れられると思っていました。

それに私たち親子は絵に描いたように仲が良い母と娘の関係というわけではなかったし、自立するのが早かった私は母がいないと生きていけないなんて思ったこともありませんでした。

もちろん母のことはずっと大切に思っていましたが、母に大好きだなんて伝えたこともなかったし、甘えることが苦手な私は素直になれず、強がってばかり、刃向かってばかりで実家で暮らしている時は喧嘩ばかりしていました。

喧嘩をするたびに何度も母に苛立ち、「早くこんなお母さんから解放されたい!」なんて思ってしまったこともあったし、母に嫌悪感しか抱けない時期もありました。

母はいつでも私の味方をしてくれていたし、どんな私でも、いつでも応援してくれて何かあると必ず助けになってくれていたのに。

私は一人で勝手に機嫌を悪くしたり八つ当たりして困らせてばかりで。母のアドバイスを素直に聞き入れることもなく好き勝手に過ごしていました。本当にひどい娘ですよね。何度母を傷つけただろうと思います。


そんなことに気づき、喧嘩ばかりしていたのは母のせいではなくて、ただ私が未熟で素直じゃなくて、母の気持ちや苦労を何もわかっていなかったからだと思えるようになったのは、母を失って時間が経ってからでした。

母を亡くしてすぐの頃は、母を失った喪失感と母を助けてあげられなかった後悔の気持ちで溢れていましたが、月日が経ち色々と考えているうちに、私が後悔している理由はただ母を助けてあげられなかったことだけじゃなかったと気づきました。


バブルが崩壊した頃、父が勤めていた会社も倒産しました。そこから、急に生活が苦しくなったようで物心がついた頃には「あぁ。うちは貧乏なんだな。」と感じていました。

オシャレな服や流行りのものなど買ってほしいものはなかなか買ってもらえなかったし、旅行だって近場しか連れていってもらえなかったし、車はいつも中古でオンボロ車だったし。

私はそんな生活に不満だらけで「もっとお小遣いちょうだい!」「何でうちはこんなに貧乏で家もぼろぼろなの?」と、何度母を困らせたかわかりません。

今となれば仕事をしてお金を稼ぐことの大変さも支払いに追われて生活費をやりくりする難しさも理解できるのですが、幼かった私には理解できませんでした。

貧乏だという家庭環境にコンプレックスを抱えていたので、自分はなんでこんな家族の下に生まれてしまったんだろうといつも思って周りを羨んでいました。

それからうちの母は化粧もしないし服もオシャレをする人ではなく、私の中で「センスが悪いダサい母」でした。それなのに母は幼稚園教諭をしながら役員や地域活動をたくさんしていたため、地域で母を知らない人はいないほど顔が広い人でした。どこに行っても私の母だと気づかれるので私はそれがすごく恥ずかしくて。自分はオシャレにお金をかけたり美意識がタイプで母とは正反対だったので、思春期でプライドの高かった私は「こんなセンスがない人が私の母親だなんて思われたくない!◯◯ちゃんのお母さんみたいにもっとオシャレしてよ!」「化粧くらいしてよ!こんな姿の母親なんて友達や彼氏に知られたくない!」なんてひどいことをよく言ってしまっていました。ドラマの世界のような綺麗なお母さんに憧れていました。

「お母さんは心が綺麗だから、外観で見栄を張らなくてもいいのよ😃」なんて言い訳をする母に、「それとこれは違う!お母さんはダサくて恥ずかしい!」なんて言ってしまっていましたが、母の昔のアルバムを見ると、母はちゃんとオシャレをしていたし、ちゃんと化粧もしていました。

本当は仕事に介護に子育てに役員や地域の仕事でいっぱいいっぱいで、化粧をしたりオシャレをする余裕がないくらい身も心も削りながら働き続けてくれてたからなのに。私たちのために尽くしてくれていたからなのに。

私は母の苦労を何にも知ろうとせずに、何も気づきもせずに、ただただ自分のことと見栄のことだけ考えてしまっていました。大切な母のことを恥ずかしいだなんて思ってしまっていた自分の思考こそが、恥ずかしいです。

今なら「そうだね。お母さんはそのままで可愛いよね。」と言ってあげたい気持ちでいっぱいです。
それに今なら、その化粧っ気がなくて服のセンスもないそのままの母の姿が可愛かったと本当に思えるのです。


実家でみんなで住んでいる頃、うちは祖母との同居で6人家族でした。高齢で口うるさい姑の長期間の介護、3人の子育て、仕事、頑固で短気な父の相手。
姑は母にお世話になりながらもいつも母をいじめていたのですが、母はずっと文句も言わずに耐えていました。父は姑の肩をもっていたし、母の味方になることはありませんでした。我慢強い母に逃げる場所なんてありませんでした。

それでも祖母が認知症になって最後は肺炎で亡くなるまでの10数年。母は祖母に懸命に尽くし続けました。

そんな母の姿をみて、「なんて立派な人なんだろう。自分にはこれだけのことができるのか」と感じていました。

それなのに、私は「母はいつでもその苦労ができる強い人」なんだと思い込んでいて母を労わることができませんでした。本当は母だって疲れ果てていただろうし、誰にも話せないモヤモヤしたことやストレスだって溜め込んでいたことだろうだと思います。弱音を吐かない母だったからこそ、1人で涙していたこともあったかもしれません。

「お母さんよく頑張ってるね。」の一言くらい、なんで言ってあげられなかったんだろう。と今思います。

それから祖母と父に責められている時、母の愚痴の1つでも聞いてあげたらよかったのに。私が母の味方でいてあげられたらよかったのに。とも思ったりします。

それ以前に、そんなに苦労だらけだった母のストレスを少しでも減らしてあげられるように、せめて私がもっと素直でワガママを言わずに母を困らせなければ良かったと…

そして酷いことばかり言って母を傷つけてしまったことを本当に謝りたいです。

気の利いたことは何も言えなかった未熟だった自分を責めても仕方がないし、今更後悔しても遅いのですが、母にしてあげられなかったことの後悔はいくらでも溢れてきます。

母がこんなにもかけがえのない唯一無二の大切な存在だったなんて、なぜ今頃気づくのでしょう。

もっと労らなければいけなかったことを、なぜ生きている時には気づけなかったのでしょう。

気づいて反省しても悔やんでも、もう何も伝えられないし何も謝れないし、何もしてあげられないのに。

人はこんなふうに後悔を重ねながら生きていくのだなと思い知らされます。でもこんな後悔は辛いだけです。


いつか母に会えるときがきたら、たくさんたくさんごめんねとありがとうを伝えたいです。






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