みなさん こんにちは

 

今日もこちらのブログを読んでいただき

ありがとうございます。

 

今日は、両親のことを書こうと思います。。。

 

 

今、毎日大きな事件なく過ごせる事を、

本当に幸せで、ありがたいと思えるようになったのは、

いろいろな困難を経験してきたからですが、、、、

当時は、なかなか受け入れられませんでした。

そして、そのような困難は、なぜか続けてやってくるものです。

話は、長女の不登校が始まった頃に戻ります。

 

ある日、東京に住む両親が突然私の家にやってきました。

母が、次の週に、脳動脈瘤をクリップで留める手術をすると言いました。

今後もしその動脈瘤が破裂してしまうと、

大きな脳出血になってしまう可能性があるので、

予防するための手術でした。

“1週間の入院で、着替えもたくさん持ったから、

お見舞いにはこないでいいからね。”

そう言って帰っていきました。

それが、それまでの私の知っている母と会った最後でした。

 

母の手術の日は、友人と八ヶ岳に登っていました。

前から何も聞かされていなかったこともあり、

たまたま予定を入れていたのです。

夕方宿泊所についても、父から連絡が来ず、

嫌な予感がしていました。

手術は、午前中には終わっている予定でした。

夜に、連絡がついたときは、

まだ麻酔から目覚めないとのことでした。

 

次の日、山からそのまま実家に行き、父と病院にいきました。

母の目は、開いていましたが、表情はなく、目も合いません。

母は、私たちを認識していませんでした。

持っていった新聞を母に渡すと、ロボットのように音読を始めました。

“もう、いいよ。”と言っても、言葉は通じず、

新聞を取り上げるまで、読むことはやめませんでした。

 

医師の手術当日の説明は、“手術中に脳を傷つけてしまった。”

だったそうです。

でも、私が行ったときは、“手術中に脳梗塞が起こってしまった。”

に変わっていました。

“時間が経てば回復する”と言われ、

父が母を介護する状況が始まりました。

母は、リハビリ病院に転院しました。

 

手足の麻痺などないため、体はよく動きます。

流暢に話もします。

でも、そもそも病識がないので、入院しているとか、

リハビリをしている認識がないのです。

リハビリの時間でも、担当の人に、

“私が払うから、コーヒーでも飲んでいきましょう。”

と言って、勝手に喫茶室に入ってしまったり、、、

自分の病室から飛び出し、いろいろな部屋に入ってしまったり。

 

他の入院患者さんの服を勝手に着ていることもありました。

お見舞いに行った時、私が母に“その服どうしたの?”

と聞くと、周りのスタッフの人の顔色が、

一斉に変わったこともありました。

服に、起き上がると鳴るセンサーだったり、

ベッドの足元に、踏むと鳴るセンサーだったり、

いくつもセンサーが付けられていました。

“これ、うるさいのよ。”と言って、ひょいと飛び越えていたので、

病院のスタッフの方たちは、本当に大変だったと思います。

 

母の退院の日には、それでも、

少し落ち着きはしました。

でも、父は、母と2人きりの生活で、

心の休まる時間はなかったと思います。

 

 

さて、私が、メキシコ人の友達と出会ったのは、

そんな頃でした。

 

(続く)

 

今日も最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

 

素敵な週末をお過ごしください!!!!