私の野球フアンとしての歴史はちょうど60年前にさかのぼることになる。1955~56年と考えてよい。小学2~3年生の頃だ。近所に四つ年上の先輩が二人いて、よく遊んでもらった。この二人が野球好きで、そして巨人フアンであった。この二人に限らず町内にたくさんいた子供たちのほとんどがそうであったのである。日本全体でもそうであったと思う。もちろん私もその一員となった。そして遊びの中心にソフトボールがあった。本当にわずかな空き地でも、少人数でもやったものである。三角ベースで。この時点でのひいきは宮本敏雄(エンディ宮本・ハワイからの助っ人・日系人)。’55年にやってきて、‘56年19本、’57年21本のホームランを打ち、そしてこの二年、打点王を取っていた。当時ではホームランバッターとしてのイメージの強い人であったし、屈託のない柔和な笑顔が好感を持てて、そしてそれらが私を惹きつけた。私はホームランバッターが好きなのだ。ほかにも、与那嶺、川上、広岡、坂崎、藤尾、土屋、内藤、加倉井。ピッチャーなら別所、大友、堀内、、藤田。監督は水原茂。いまでもよどみなく出てくる名前たちである。
そのころ、野球界を騒がすもう一つのシーンがあった。東京6大学は立教の長嶋茂雄である。同リーグの、当時としては、通算最多新記録の8本のホームランを打って、その去就は、地方のはなたれ坊主たちの間でも話題の中心になっていた。ある朝のこと、朝刊に―たぶん一面―「長嶋、巨人に内定」という記事を見たとき、本当にうれしかったことをいまだに忘れていない。
(注) はなたれ坊主(洟垂れ坊主)
この頃はまだ栄養状態が よくなかったので、子供たちの多くはよく洟を垂れていた。洟をかむ紙も持っていなかった。寒い時期なんかは、綿入れの半纏を着ていた。これで洟をぬぐうから、袖口なんかはピカピカ光っていた。