中南勢音頭通信 南勢地区1 会式(えしき) | 私が言っては遺憾会(中南勢音頭通信)

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会式という行事は、今ではほとんど残ってはいないと思うが、以前にも述べたように、「下七見に始まり、丸の内で終わる」(松阪地区では)と言われたように盆明けから、10月の初旬にかけて、各村落にとってのお祭り日であった。踊りはその日に行われた。それも、40年代に入るころには、大きく崩れて、いずれも休日前夜(つまり、土曜日)にしかやれなくなったところが多くなってしまった。

 

それでも、明和町ではかなりおそくまで続けておられて、私が訪れたところだけでも、820日の稲木(これは松阪)、以下、竹川、牛場、斎宮中町、勝見、上野、下有爾、本郷、新茶屋、下御糸地区でも、中村、佐田、中海、前野、それに坂本、上のほうでは有爾中、そして27日の蓑村まで。連日、ぎっしりと会式踊りが行われていたのである。そして地蔵盆と呼ばれる823日には、松阪では朝田、明和では中村、玉城では宮古の三か所が会式であった。

 

さすがに、9月に入ると、明和で大淀地区、松阪では猟師町だけであったから、10月にやるところがあると聞いたときは、正直、驚いた。で、笠原氏と出かけて、あの光景に出くわしたのである。

 

おそらく、初めて行ったのが1981年、この時は小俣町の湯田に出かけた。ここでの踊りは当たり前の浴衣姿であった。ここで出口、吉田の両氏の姿を拝見したのである。笠原氏にとって吉田氏は顔見知りではあったが、出口氏とは初対面のようであった。しかし、出口氏は笠原氏のことは知っていたらしく、嬉しそうに、愛想よく対応され、握手をされていた。

 

10月の第一土曜日、この同じ日、伊勢市、と言っても玉城のすぐとなり、上地と粟野でもやっていることをここで知ることとなる。この時は、録音機はもっていなかった。

 

ここで、この二名、他一名の音頭を聴いたのであるが、正直、このときは、普段自分たちの接している音頭とは(山川節が理想であった)、多少、距離を感じたのであるが、やはりベテラン、笠原氏は出口氏を高く評価された。そして翌年から、南勢地区の視察に向かうことになったのである。もちろん、テープレコーダーを携えて。