長谷川征義(下七見町1939~ )。
昭和14年生まれであるから、私の9歳年上である。私がこの人に初めて出会ったのは、‘81年のこと、帝水小学校での踊りの場であった。私は飛び入り参加であったが、「千代の富士」を引っ提げての自信満々の登檀であった。私の後がこの人であった。びっくりした。「こんなにうまい人がおるんかいね」。世の中広い、と思った。道風と長谷川、音頭界の明日を担うであろう二人、との思いを抱かせる一夜となった。(自分では、そう思っている)。失礼。
長谷川といえば「岸壁」、「岸壁」といえば長谷川。どこかで聞いたような言い回しである。彼がもし、もう一時代早く世に出ていたら、山川さんと覇を競ったのでは、と、想像してしまう。
すでに踊りは激減していた。そのうえ、踊りの時間の短縮化である。つまり、何処の踊りも音頭師の数は、極力減らされてきていた。運は私にあったようである。地元(高須、西黒部、松名瀬)のほか笠原氏とのコンビにより圧倒的に多くの出番を持つことができていた。彼には、地元以外では、私が都合がつかない時に、笠原氏や北出氏に呼ばれるしかなかった。もちろん運だけではない理由もあった。かわさきが出来なかったこと、そして、最大の理由は、持ちネタが唯一、「岸壁」一本だったことである。先の両氏も嘆いておられた「一晩に三回やりゃ、三回とも岸壁や」、と。
まれにみる強心臓の持ち主ではあった。