氏郷祭りに。紹介しておいた「明智光秀」、後半部分を九分ほどとったのであるが、風の強い日で風切り音が強く、調子もいまいちで、お聞かせできるものではない。いずれまた、あらためて。
さて、田中師匠のもとへ通うことになり、最初の年が「寿」、二年目が「おかげ」、三年目に「くるわい」、「乗合」と習っていった。実はその前に「おかげ」はテープも、文句も手に入っていて、演れるようになっていた。だから、その夏の地元の踊りに飛び入りで演ってみたのである。つまりこの年が私の初舞台であった。そして、この時点で、かわさきに関してはすでに第一人者であった。
すでに述べたように、かわさきは北西部地区の音頭であったから、南東部のこちら側には本物(本節の)のかわさきの取れる人はいなかったのである。北出三郎ですら、正真正銘の、とは言えなかった。しょんがいはというと、「三重の唄」のしょんがい音頭である。これを枕に「戦友」や「汽笛一声・・・・」の「鉄道唱歌」なんかの歌詞でそれらしくやっては見たがこれは本物ではない。しかしながら、やはり、主たる踊りはしょんがいである。いつまでも、かわさき一本でというわけにはいかない。しょんがいは必須の命題であった。
さあ、どうしようか。ひとつの信条があった。かわさきは習うもの。しょんがいは作るもの。なぜだかはわからない。ともかく、自分にとってはそうだったのである。おそらくは、先輩諸氏を聴いていて、漠然と、そう感じていたと思われる。
そしてできたのが「ロッキード疑獄」。ずいぶんとお堅いものであった。たぶん、二十九の時。しかし、これは六分程度のものであったから一人前の演題にはなりえなかった。この頃は一席の持ち時間は短くても15分から20分、長いものは30分以上のものもあった。
バロン吉元の『柔侠伝』が好きでこれで作ったりもした。長いものでは、菊池寛の「恩讐の彼方」でも作った。しかし、やはり、唄いが身についていなかった。みかねた大泉幸平さんが二つの演題をくださった。「五郎正宗」と「吉原百人切り」であった。せっかくなので「吉原」に取り組んだ。これは後年までレパートリーの一つであった。しかし、これも短編であり、自分にとって十分に満足といえるものではなかった。自分には、どうしても自作のオリジナルが欲しかったのである。
そもそも七・五調ばかりの文体だと節の流れ、展開がどうしても単調なものになってしまう、(と、思っていた。どうにも、鼻持ちならない偉そうな人間であった。このことは、いまでもあまり変わっていない)。変幻自在の自由闊達なる芸、そう、山川節こそが自分にとっての理想であった。
それを確信したうえで、知り合いを通じて、山川章氏への「テープ貸して」のお願いとなったのである。