水稲。
名は体を表す。昨年のぬかるみに恐れをなして、水を控えて作ってみたらやはり減収の結果であった。あきたこまちが特にひどく反当たり収量2俵の減(昨年比)と出た。減収を嘆くか、楽な仕事を喜ぶか。・・・
やはり収量は多いがええ。そのうえで仕事が楽がええ。
さて今年の踊りも私にとっては9月5日の猟師町を残すのみとなった。この夏は比較的体調も良くまあまあの結果が出せたように思う。もう一晩頑張ろう。
音頭通信再開します。
山川正治=福井文衛門=しょんがい音頭
しょんがいといえば文衛門、文衛門といえば山川、山川といえばしょんがい。逆もまた真。
代表作品にして最高傑作。彼以降の音頭取りのすべてに決定的な影響を与えた人であり作品であった。
ほしいがままの名声は、しかし 同年代のライバルたちにとってはやはり穏やかならざるものがあったであろう。「(文衛門を)やり始めのころは口にも慣れずそんなにうまくはやれなかった。彼の全盛期は 鼠小僧 の頃かな、本当によく声が出ていた。」との声を聴くこともあったけれども。
彼がこの作品に出合ったのは50歳前後であり 私の経験から言っても声も衰え始めるころである。しかしながらいいものは誰にとってもいいものである。ある会場においては三人いた音頭師すべてが 文衛門を演った、という話も残っている。
ふつう、、しょんがい音頭の形式はまずゆったりとした文句の刻み、節回しにて一通りのあいさつがあり(つまりは浪曲でいう御入来か)そのあと枕という小品を述べてから本題に入るというのが一般的な形であるが なかには、あいさつがやたら長く、本題に入るまでに半時間以上もかける御大もいたものである。ところが山川氏は朝田ver.を聴いてもらえばわかるように、あいさつもそこそこに ・・・ 私が死んだら 朝田の地蔵さんに 掛けておくれな 振袖を ・・・ と一気に本節(といわれる節、読み、刻み)に突入していくのである。こんなことのできる人は他にはいなかった。後に紹介する名手 出口寿雄(1933~2003 玉城町)氏ですら「山川さんには憧れた」と私に話されたことを覚えている。緩急自在、変幻自由、やりたい放題振舞えてすべてが拍手喝采、真に音頭界の桃中軒雲衛門というべき存在であった。
私が後に御子息 章 氏から保津での「文衛門」、「桜川五郎蔵」の二席のテープをお借りし、徹底的に勉強させていただいた結果 心に誓ったことがある。
それは 「文衛門」だけは演らない。 ことであった。