恐怖 と 希望 | 銀輪流転

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日本の世論の一部に暗澹たる気持ちになる。
勿論、どのような見解を持つのも個人の自由である。
日本は、それが許される国である。
しかし、影響力のある方はそれなりの責任を持つのである。

曰く
 ゼレンスキーは国民の命が失われるをこのまま放置するのか?
 徹底抗戦を呼びかけるだけで良いのか?

曰く
 国のために殉ずることは正義なのか?
 日本もかつては竹やりで戦おうとした。
 戦えとは言えない、逃げることも選択肢。

 そう、それらの意見は、個人の思いとしては理解できないでもない。
しかし、オピニオンリーダーとしての立場としたはどうかと失笑を禁じ得ない。

 それらの意見は、対岸の火事であり、傍観者としての感想だろう。

 ウクライナの事案で私が頭に巡る景色は、
  満州を巡る日本の国際連盟脱退であり、
  中華民国の対米参戦への戦略である。

 あるいは、
  ナチスのチェコ併合、
  ナチスとスターリンのポーランド分割、
  スターリン施政下でのウクライナの飢饉
である、

 これらの歴史的事実と構造との類似である。

 私は、ウクライナ国民の意思が継続する限り、
その意思を尊重したい。
 命はもちろん大事であるが、
 それを守るために命を懸けることを求められる時はある。

 ロシアは恐怖で世界を屈服させようとしている。
  大軍を持ってすれば小国は唯々諾々従うしかないのか?
  ”核兵器”を持って脅せば何をしても許されるのか?

 ウクライナの抵抗は、希望なのである。
 ”核兵器”は結局のところ、自らが死ぬ覚悟無い限り使えない兵器
 確証的破壊という核抑止力ゆえに使わないのではなく、
 核兵器の使用が、少なくとも国際社会からの抹殺となることを
 示さなければならない
その希望なのである。
 
 ガソリンがいかに高くなろうと、パンの値段があがろうと、
そんな犠牲は物の数には入らない。

 ビクリア朝英国での進歩的人権主義者のティータイムで、
  インドや中国での下層民の窮状に憂慮が語られる矛盾に
陥りたくはない。