論理的な思考というのは、はかがあることを良しとする。捗るという言葉がそのことを表している。
はかと言うのは、図、測、果のことである。
けれど、古来から日本ははかがないことの魅力もわかる民族であったと思う。
花が散ることに儚さを感じたり、花火の潔く散るのを見て、そこに儚さを感じたりしていた。
ところが、だんだんとその良さというのが分からなくなってきているのではないかと思う。
花火を見てそこに儚さを見るのではなく、むしろ綺羅びやかを見るようになっているのではないか。花見をするでも散る儚さを見るというよりは、その場の雰囲気のみを楽しむようになっているのではないか。
こうも変化するまでに何があったのか僕にはわからない。
一瞬一瞬を生きるのではなく、未来の目的のために動くというようになるとこの儚さということが見えなくなる。そのことを徒然草でも述べているし、葉隠でも述べている。もっと降るとアドラー心理学なんてのもそうであるし、小林秀雄の思想もそうである。
自然科学なんてのも、はかがあることを良しとしている。その思想が意識するとしないとに限らず現代人には染み渡っている。
言うまでもなくそれというのは、論理的で寄り道をしないことを良しとする思考回路である。つまり、はかがあることを良しとする思考である。
それとは別種の自然科学というあり方かあっていいのではないかと思う。
対象化された人間を除いた自然科学ではなく、人間を含んだうえでの対象化されていない、つまり、目前に目的物を置いて観察するのとは違った自然科学のあり方もあっていいのではないかと思う。
日本古来の思考というのはそういった自然と一体となった、自然を対象化しないものであった。
この自然を対象化しない科学というのは木村敏の言う「こと」としての科学になるのだと思う。「もの」としての今の科学ではなく、「こと」としての科学。
そんなものは科学ではないと言われそうだが、そういった全く見方を変えた科学もあっていいのではないかと思う。
追記
まだちゃんと読めてないし、深い考察を出来てないが、ハイデガーの「存在と時間」に「こととしての科学」に関することがありそうである。ちゃんと読んだ後にまた考え直したい。