徒然 | 道のブログ

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思いつくままに、思いついた事を書くブログ

おそらく、科学の二元論の始まりはデカルトからだろう。物心二元論という考えは、心という魔物を避ける為の最善の方法であったろう。だが、それから四百年もその方法に縛られているが、それでいいのだろうか。一方を考える事は他方を捨てる事なのだろうか。一元論的に科学を再び考える事はできないのだろうか。蔵本さんの「新しい自然科学」にはそのヒントらしいことが書いてあった。プリゴジンさんの散逸構造、ルネトムのカタストロフの理論、これらは科学を統一的に考える手がかりとなる事は分かった。


そうして、日常起こる出来事は線形科学では分からない。その例として、「新しい自然学」には、幾ら高性能のコンピュータを持ってしてでも、空飛ぶ風船がどこに飛ぶか分からないことや、木を折った時どのように折れるかはわからないと言うのを出していた。非線形という科学は粗いという欠点があるというような事もその本に、書いてあった。それは日常現象の科学を構築しようとすれば粗くなる。もちろん、非線形を持ってしても、上記の問題は解決しないかも知れない。だけれども物理学の幅は広がるだろう。


統一ということについて、西田幾多郎の「善の研究」にもそのような記述があり、その記述と「新しい自然学」とは共通する部分あり、それにより、これから東洋思想というのが今にも増して重要さを増すのではないかと思った。道という概念がハーバート大学でも評価されていると聞く、その道というのも東洋思想の根幹に近いと思うが、これこそこの一元論的な見方であると思う。


なお、僕のブログは道のブログであるが、それは自分の名前から取ったもので、深い思想的な意味ではない…。ただ、父が○道という名前を付けたのにはそれなりの理由があったと聞いている。


追記 どうもファジー理論がこの問題を解決してくれるのではと思う。菅野道夫さんの文章を断片的に見て、それを直感した。