のろのろ読書 -2ページ目

海辺のカフカ/村上春樹

カフカ

人と本と、映画と、には出会うべき時があるように思う。
この本は1年近くずっと手元に置いたままだった。
その気になればいつでも読めたのに読んでいなかった。
やっと手に取った今が「その時」だったのかもしれない。

「その時」が来て手に取った村上作品の、
非現実的なストーリー展開の中の心理描写に、
私は現実的な心の痛みをともなう程にはまりこんで
一言一言に深く共感しながら読んだ。

あらゆる喪失感と無力感でいっぱいの物語でした。
損なったものを埋め合わせることはできなくて
再び損なってしまうことの恐れがまた別の喪失を生み出す。
記憶は大切ですが、それだけ人を苦しめます。
忘れたくないけど、忘れないと苦しい。
20才の佐伯さんに「エターナル・サンシャイン」の
ラクーナ社をにオススメします。
そうすれば少年カフカも悩まずにすんだでしょう。
すべてを知って乗り越えるタフさを身につけるのは
15才の少年には厳しい試練です。

本当は、次は「ノルウェーの森」を再読して、高校生の時に
感じた嫌悪感を払拭してしまおうと思っていたのだけど、
少し怖くなってきた・・・
まだ「その時」じゃないのかもしれない。


サトウはいささか疲れました。。。
猫さんネコとお話ができたらいいのですがまだ無理のようです。
時に言葉はあまりに無力です。

建築家なしの建築、さぁ横になって食べよう/B.ルドフスキー

B.ルドフスキー

設計段階でその土地の風土性を読み解き、評価するというのは
当然のこととして教わってきたが<建築家なしの建築>展が開催され
この本が出版された1964-5年は必ずしもそうではなかった。
風土建築・無名建築のケーススタディやサーベイのきっかけになったり、
啓蒙的役割を果たしたという意味で評価が高いと聞き
「建築家なしの建築」を読んでみた。
B.ルドフスキーの他の著作に「さぁ横になって食べよう」「みっともない人体」「キモノ・マインド」があり、これらは元ボスやその仲間達の本棚でよくみかけたのだが、

変なタイトルの本ガーン 

と印象は強いものの手に取る事のない本だった。
同じ著者とわかってそのつながりが意外だったので続けて一冊読んでみた。

そして思った事。
B.ルドフスキーの視点が究極的にニュートラルで、良い悪い、優れている劣っている、の判断基準そのものの見方から問い直す論法がおもしろかった。
「建築家なしの建築」では図録の説明は少なく、各地の無名建築の羅列にとどまるので読んでいて「へぇ・・・」で終わる部分がなきにしもあらずなのだが、その羅列こそがニュートラルな視点へ導いてくれる。
「さぁ、横になって食べよう」では文明生活イコール、食器を使い、椅子に座り、洋式便所で用を足し、ベッドで眠るというごく一般的な見解に、必ずしもそうではないと説く。
究極的にニュートラルと書いたけど、根本に「欧米サイコーロケット!!」という意識が全くなく、むしろアジア贔屓と言っていいのかも。たとえば

 床に座り背もたれがなくても平気でいられる日本人は、
 もの凄く柔軟で姿勢のよい身体を得られたが一方で、
 アメリカの学生が脚を机の上に投げ出して座るのは
 椅子生活が原因で身体が固くなってしまったから。

とか。

 ベッドができたのは欧米人の床が汚すぎるから床から離れて
 寝ようとしただけで、日本人の床は奇麗だから布団さえあれば
 どこでも寝室に早変わりして便利。

とか。
それぞれのテーマ・エピソードの内容よりも
「ものの見方」の勉強になる2冊でした。

苔のむすまで/杉本博司

苔のむすまで
著者のプロフィールには「現代美術作家」とあるが、
私にとっての杉本博司像は「空気を写す写真家」だった。

劇場や海、有名建築をとった作品群をいくつか美術館で見たことがある。
中でも劇場シリーズの写真には、
一瞬写真なのか絵なのか映像なのかよくわからないような空気感が漂っていて、

「何なんだろう、これはてなマーク

と思っていた。この本でその謎が解けた。
映画一本分のシャッタースピードで写したものだそうだ。
だから室内を照らす明かりは映写によるもので、
肝心のスクリーン部分は画像がなく
露出オーバーで真っ白くなっている。
そしてそれが意味するのは「写真は記録はするが記憶はできない」。
写ったものでなく、写らなかったものによって表現しているわけだ。

もう一つちょっとびっくりする一文があった。

「写真は嘘をつかないというのは嘘」

えっ・・・目
歴史上の人物のポートレート、
類人猿のカップル、
鎌倉時代の光に照らされる仏像。

それぞれの時代、場所に著者が行って撮れるわけもなく、
みんな「嘘」だ。
嘘によって現実を伝えようとしている。
写真が嘘をつくなんて考えてもみなかってけど、
よく考えれば、小説も映画も「嘘」を利用した表現・・・
芸術性を担うのは、
作家が勝負するのは、その「嘘」の部分なわけですね。

先日、知り合いの写真家とある写真編集者の対談があり、

「日本の写真家には『演出』=『ヤラセ』のイメージが強く
 それを悪い事と思う風潮がある。
 一方海外では、報道写真や飢餓や戦争の悲惨さを
 伝えるときでさえも『演出』をすることで
 より真実が伝わればそのほうが良いとする人が多い。」

という話題がのぼった。
著者は写真を学んだのも活動の基盤も海外だ。
「嘘」「演出」「ヤラセ」を武器にするあたり、十分に

欧米か えっ!!

している・・・のに、
何なんでしょう、思い切り右寄りなこの本のタイトル。
各章のタイトルにまつわる著者のエピソードや、
歴史、古典、芸術、文化ととにかく話題は飛びまくる(笑)
その上それぞれの話題に関連性があまりない・・・(苦笑)。
(著者自身が「この話はどこへ?」「話をもとに戻そう」とか言う程です)
けど各章の最初に出てくるインタビュー形式の文章が
著者の作品の解説役となっていて、おもしろい構成です。
絶妙な質問をなげかけるこのインタビュアーの正体を知って
ちょっと苦笑いにひひ

この本を読むまで勝手に著者を若手写真家だと思っていたのですが
驚いた事に60過ぎの団塊世代のおじさんだった。
ニューヨークの盛衰をみてマルクスを語り始め、
ソクラテスの話題に持って行くあたりが
同じく団塊世代だった高校の社会の先生とソックリで笑ってしまった。
当時の学生が学生運動しながら話す定番の話題だったのかしら?

風の歌を聴け/村上春樹

風の歌を聴け

ここ数ヶ月、試験のテキスト以外読んでいなかったら
思考回路が単調になって
ダメダメ人間になってしまいそうだったので
薄っぺらい文庫本なら・・・いいよね
と自分に許しをもらって、少しだけ読書。

感想は・・・
ハルキさん、
デビュー作ですかぁ、どうりでお若いですね。って感じです。
羊をめぐる→1973年の→風の歌 と逆行して読んでみると
本を出すごとに人物像と背景の完成度が増して
そして作風も熟していったのがよくわかります。

「羊をめぐる冒険」で 人間の弱さ を深く語るに到るわけだけど
ここでの「鼠」や「僕」の、他人と距離を置いたふれあい方が
クール とか スタイリッシュ だとかの言葉で片付けられそうな
雰囲気で、作家も登場人物もまだ若いんだというのがよくわかる。
村上ファンには意外とこの3部作を逆行して読む人も多いらしいけれど
納得。そしてオススメ。
作家も意図していなかっただろう演出効果 大かもしれません。

今回読んでいてすごく気になったのは
「人との距離感」です。

人間の存在理由(レーゾン・デートゥル)って
「人とともにいること」  
だと思う。
その人の存在を求めるとき、
求められた人の存在理由が一つ増えるんじゃないかな。

でも実際に存在を求めること(気持ち)と
追いかける、依存するということ(行動?)は
必ずしもイコールじゃなくて・・・そのバランスを保つのは難しい。

私は上手に距離感を保つのが苦手です。
迷惑じゃないかなぁとか勝手な遠慮をしてしまって
連絡とかお誘いとかするのにかなり勇気を要するほうです。

ホントは依存心が強いのでコアな関係が好きなのに。
「つかずはなれず」じゃなく
「つくかはなれるか」みたいな付き合い方に
なってしまいます。

ベタベタしないで距離を保ちつつ、存在理由を感じとれるだけの
信頼関係を築くのって難しい。
親友同士ならこういう関係を保てれば理想的。
好きな人には ぴとっといつも触れるくらいの距離が好きですが・・・
てへっ。

登場人物たちはみんなた~っぷり距離感あります。
「鼠」と「僕」と「ジェイ」の間だけはその距離があっても
存在理由をわかりあってるのは男どうしだからか?

初対面だけどこれから仲良くして行きたい人 とか
すごく頼りにしたいけど迷惑にならないよう気をつけたい友人 とか
ベタベタしたいけど鬱陶しがられても困る恋人・・・等等

との適正な距離感ってメートル換算できないかなぁ・・・!?


天使と悪魔/ダン・ブラウン

チエトタツオ

ハルキ本はちょっとお休み。

いや~これは

小説界の twentyfour や~!!

と彦麻呂ばりにさけびたくなりました。
書店の売り出し文句は
「ウンベルト・エーコ+トム・クランシー+マイケル・クライトン」
私的には
「24+セブン+((ナショナルトレジャー+ダビンチ・コード)/2)」

そんな感じでありました。

上巻の半分位を2~3日かけてのろのろ読んで
残りの1冊半を1日で読んでしまった
・・・いや途中では止められませんでした。
寝不足です。ぐぅぐぅ

爆発爆弾までのリミットはその日の24時
事件はリアルタイムで・・・・
だけどこっちの人たちはお腹もすくし、おトイレにも行きます。

殺害予告と謎解き、おぞましい殺害方法はまさにセブン

フリーメーソンやら十字軍やらカソリックやら
中世から続く謎・噂の真相をたくみにからめたストーリーは
ウンベルト・エーコほどの難解さはない、
むしろ笑っちゃうほどあっさり謎がとけちゃうナショナルトレジャー+
でもさすが話はうまく出来てる!!
から同著者のダビンチコードも入れとくか・・・て感じです。

美術・建築好きにはたまらない内容で
「はぁ~ベルニーニいいよね・・・」と心はローマにひとっ飛び。
確かに彼の作品はあまりに多く、ガイドブックに載っていなくても
おお~ここにもかぁ、っというくらいたくさんある。
私の一番好きなベルニーニはローマのトラステベレの丘の上、
サンピエトロ・イン・モントーリオ教会。
いくつもある小さな礼拝堂のうちの一つが
ベルニーニによるものだった。
廻りのカペラは色とりどりの大理石を使っているのと対照的に、
そこだけは淡い白大理石一色で、
聖人レーモンドが天使に導かれ天へ昇る像が
それほど大きくなく壁にはめこまれていた。
薄暗い教会にあって、
そこだけは巧みに明かり取りのサイドライトが穿たれ、
聖人の表情をせつなく浮かび上がらせていた。
観光客もまばらな昼下がりに、
その光につつまれてしばらくじっとしていた事を思い出しつつ
(ストーリーとは全く関係ないんだけど)読みすすめました。

本の中で宗教や神を、現代的にどうとらえてよいのかわからないとき
バチカンの若い衛兵と司祭がかわしたごくごくシンプルな問答が印象的だった。

衛:神が「全知全能で慈悲深い」ということの意味がよくわからない
  それならなぜ世の中の苦悩をすべてとりはらってくれないのか?
司:あなたが8歳の男の子の父親だとする。
  スケートボードをしたいという子に危ないからといって
  それをさせないでおきますか?
衛:いいえ。多少のケガをしてもそれで遊び方を覚えさせます。
司:そういうことです。それが父の慈悲です。

・・・むむそうか、苦しみは試練だと。
でもスパルタはいやだなぁ

ところで
読めば読むほど、主人公ロバート・ラングドンは
トム・ハンクスじゃない・・・
やはり著者のいうとおり、(イメージして書いたんじゃないかっていうくらい)
ハリソン・フォードがぴったりです。

「天使と悪魔」「ダビンチ・コード」に続くラングドンシリーズ第3弾執筆中とのこと。
楽しみです。

羊をめぐる冒険/村上春樹

羊をめぐる冒険

おおまかなストーリーを知ってしまうと新鮮味がなくなるので
映画も小説もあまり繰り返し見たり読んだりしないのだけど、
今回は「1973年のピンボール」の続きがよみたくなって、めずらしく再読。

ストーリーもさることながら村上春樹の「まるで・・・のような」
というかわいらしい比喩がやっぱり好き。
淡々と、そんなにうまい話が・・・?的に
「僕」はターゲットの羊に近づいていくのだが
そのうまい話にもオチが。
ラストの「鼠」が話すシーンは何度読んでも悲しかった。

キーポイントは弱さ。
弱さをつらぬくというのは強くなければできないことだろう。
登場人物は、  みんな強い。
去っていくものを「いなくなってしまった」ですませてしまうのは、ちょっとできない。
泣いてわめいて、喜んで悲しんで、をしないのは・・・・無理。
だから私からみると、村上作品の登場人物はみんな強い。
村上春樹が「鼠」に語らせた「弱さ」は、
愛・富・地位・存在からのがれ、物事に執着がなくなるということか・・・・・?。
見る角度によってそれは、弱さ だったり 強さ だったりするのかな
例えば、私はホームレスの人々を見ていつも思うのは
弱さゆえに俗世間で生きれない彼らに、強さ を感じる。
想像を超えた孤独感に耐え生きていると思うから。
でも、そういう強さは身につけてはならないよね。
彼らは俗世間の中でもがき苦しむことを捨てて、路上で飢えと孤独に苦しむことを選んでいる。
あまりにも悲しすぎる。
ハルキ本がいつも悲しいのはそこなのかも。

それにしても今までいつもハルキ本を読むと
ビールが飲みたくなって
サンドイッチやらオムレツやら食べたくなるんだけど
禁煙記録更新中に読んだから、
「僕」がおいしそうに煙草を吸うシーンがこんなにあったとは
気づかなかった!

1973年のピンボール/村上春樹

1973年のピンボール


あれ?あれ?これも読んだことある気が・・・とおもったら今度はこれは

「羊をめぐる冒険」

に続く小説でした。
古い作品だからその後の作品におなじみのキーワードがたくさん出て来て楽しい。

双子の女の子とか
「耳」に関するくだりとか
サンドウィッチとドーナツと不味いコーヒー
井戸・・・などなど

僕と鼠のストーリーがずっとシンクロして、
いつ絡み合うんだろうと思いつつ読んでいたら終わってしまったので
私には珍しく、もう一度「羊をめぐる冒険」を読み直す事に。
三部作の一作目「風の歌を聴け」も読んでないから
全く読む順番間違えてます・・・

蛍・納屋を焼く・その他の短編

蛍・納屋を焼く・その他

テーブルの下に山積みにしたまま
ずっと手をつけられないででいた村上本にまたハマりだしました。

ん・・・あれ?デジャブ??この小説読んだ事ある?
と思ったらこれは

「ノルウェーの森」

の元になった短編「蛍」でした。
そして「ノルウェーの森」といえば当時高校生だった私が初めて読んだ村上作品であり、かつその一作で即、村上春樹に拒絶反応を示してしまった作品でした。
だってその頃の私には「性」のことも「生・死」のこともわかったようでもまだまだ遠い世界だった・・・

好きじゃないのに寝るか?
フリーセックスって~何それ???
大人なのにこんなにだらだら生きていいんだろうか。
友達が死ぬって・・・想像もつかない・・

理解できないことだらけで
読み終わった時の疲れはそのまま嫌悪感に変わってしまったのでした。
ストーリーはよく思い出せないのに
「気持ち悪い」
という印象だけ強く残っています。

でも今は・・・
丁度村上作品に登場する人々の年齢と重なるくらい
(作品によっては超えてるけど・・・涙)
になってようやく、自分が作品に共感できていることが判明しました。
心臓をえぐりとられたかのように自分の内面を暴露された感覚になることもあった。(←「回転木馬のデッドヒート」でした)
突拍子もない設定なのに妙にリアルでせつなくなったり。(←「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」)
村上好きを伝染させてくれた人物に感謝。

さてこういった短編集だと、佳境に入ったところで放り出されてしまうものだから、最初は「っえ、え~?」って戸惑ったけれど、これぞ村上ワールドなんですね。
あっと言う間に読み終わるのに、ものすごい想像力をかきたてるから、なかなか自分の中でストーリーが終わらなくなります。

意中の建築(上・下)/中村好文

意中の建築

建築家中村好文氏のエッセー+絵本のようなかわいらしい建物訪問記。
氏の発表作品にはいつもかわいらしいイラストが添えられていて、
文章からも人柄がにじみ出ているので、
堅苦しい建築専門の雑誌のなかにあっても、その数ページだけ
暖かいオーラに包まれた感じになります。

同氏のこの手の訪問記では前著に
「住宅巡礼」
「続・住宅巡礼」
というのがあります。
こちらはご自身で出版社に企画して持ち込んだとのことで
撮影・イラスト・文章すべて一人でこなして
世界中の名作といわれる住宅を取材して回られたそうです。
(正直、内容はこちら前著のほうが◎。
自分も旅をしてきたような気分を味わえます)

私は建物を見学する心構えみたいなものを
この本から教わりました。
その答えは見ることでなく感じることだと。
建築家が混めた思い思いのディテールや意図に、
いくつ気づくことができるか・・・
「目ざといタチ」の中村氏の気づきの量はハンパではありません。

今年の初夏にヨーロッパを旅している間、
この本の中で中村氏が引用していた
アメリカの建築家チャールズ・ムーアの

「偉大な建築物の実感を得る為の最上の方法は、
   その建物の中で目を覚ます事」

という言葉を何度も思い出しました。

おそらくこの言葉の真意は、「眠る」とか「目覚める」には関係なく
その空間にながれる「時」を読み取ることではないかと思いました。
巨匠ル・コルビュジェの作品郡やその元ネタと言われる
ル・トロネという中世の修道院を訪れて、建築家の描いたストーリー
が目の前で繰り広げられているような気になったからです。

 早朝の祈りを、窓からさす朝日をあびながら捧げる僧坊、
 一日の最後の日差しが教会の一番神聖な奥の祭壇まで
 ゆっくり延びて人々の畏敬の念を高める雰囲気など、

光によって空間が演出され、一日かけてドラマチックな時間が流れていくのを感じて、
「目覚める」というのはそのストーリーの中に身を投じることなんだ
と解釈した訳です。


この「意中の建築」では「住宅巡礼」で取り上げて来たような
 いかにも  という名作以外に、それほど注目されないまま消え去ってしまった
氏にとっての名作も いくつか取り上げられています。

東急線旗の台駅の階段室が「神々しい、劇的な空間」だったとか、
多くの思想犯を投獄した豊玉監獄(中野刑務所)が「優美な赤煉瓦の獄舎」でこれも空間が劇的だったとか。

法隆寺級に古ければ別ですが、
近代の特に戦後の建物は建築界で有名であろうとなかろうと、
今どんどん解体されつつあります。ほんとに残念。
無くなる前に訪問しておきたい建物をチェックしておかないとな・・・と思う今日この頃です。

樋口一葉の手紙教室-「通俗書簡文」を読む/森まゆみ

父を亡くしたとき、仕事に終われ実家に帰れず満足に弔う事もできずにいたころ、
納品されて来た大量の図面の中に、便箋が1枚だけはさまっていた。
当たり障りのない慰めの言葉ではなく

悲しみに耐えられなくなったら吐き出すことも肝心です。
少なくとも1年、いやそれ以上はかかるだろうけど
無理をしすぎないでがんばって。

たしかそんな内容だった。封筒にも入っていないし文章も飾り気のない
走り書きのようなものだったがこの手紙にどれだけ救われただろう・・・
その文をくださった方が、後々この本の話をしていたのを
思い出しずっと探していた。

樋口一葉が様々な場面を設定して手紙とその返事の例文をまとめた
「通俗書簡文」からの約半分を抜粋した原文とその解説集。
一対の書簡だけで臨場感のあふれるショートストーリーが
出来上がっていて、1冊の短編集を読み終えたような感覚になる。
「落雷はげしかりし後友におくる文」「猫の子をもらいにやる文」
「試験に落第せし人のもとに」「火事見舞いの文」などなど
ユーモアたっぷりのものからシリアスなものまで。
情緒豊かな文語体の響きは、現代語に置き換えることの
できない奥深い意味合いを感じさせる。

人を悲しませ怒らせることも
癒し、愛を伝えることもできる

    こ と ば

の力を、そしてそれを使う事の素晴らしさを
感じることのできる1冊でした。
大満足! 
手紙教室