海賊がつくった日本史

海賊がつくった日本史

現在、2017年新春に出版する予定の仮題『海賊がつくった日本史~海の道の歴史~』という著作を執筆中です。その中の小ネタを待ちきれない読者のために小出しにします。著作が出版されるまでの間、これで我慢して待っていてくださいね。

Amebaでブログを始めよう!

 平安時代中期の承平・天慶年間(931~947年)中央政府の朝廷を震撼とさせた大乱が二つ連続して起りました。一つは関東を中心にした「平将門の乱」、もう一つが瀬戸内海全域を舞台にした「藤原純友の乱」です。
ここでは海賊ということから、藤原純友に関して考察してみたいと思います。
藤原純友は、藤原氏北家の家筋で、本来なら都での栄達も望めました。しかし、父良範が早くに亡くなったために、出世を諦めて父の従兄弟である藤原元名が伊予守に任命されたため、その縁で「伊予掾(じょう)」として承平二(932)年に伊予国府に赴任しました。「掾」というのは国府の三等官で、国府では三番目に偉いのですが、藤原北家の者としてはかなり不満な地位だったことでしょう。
 そして、元名が任期を終えて伊予を去ったのちは、そのまま伊予に土着しました。
そして運命の承平六(936)年に、豊後水道に浮かぶ孤島「日振島」に船1000艘に載った民衆2500人が集結したのです。その頭領が藤原純友だったので、ここからが歴史学上は「藤原純友の乱」となるのですが、これはすぐに治まってしまいました。
そして3年後の天慶二(939)年、こんどは純友が日振島から出航して、瀬戸内海沿岸を襲撃する事態になって、本格的な乱となるのです。
果たして、この乱は純友が自ら望んで起こしたのか、純友自身は朝廷と戦う気があったのか。
さらに言えば、朝廷は純友を海賊だと思っていたのか。そして純友は自らを海賊の頭領だと思っていたのか。

藤原純友が伊予掾として赴任した伊予国の国府があった今治市。

JR今治駅前には「真田十勇士」の猿飛佐助の銅像があります。

猿飛佐助をスターにした『立川文庫』の創立者山田阿鉄一族の出身地が今治市という縁です。

 

 海賊のはじめと言っても、海で人の物を奪う行為は、人類が出現したときから、あったことでしょう。例えば、隣りの人が釣った魚を盗むとか。果たしてこれを海賊というかどうか?
集団で奪いあったら、これは戦いのはじまりです。そんなことを言っていたら、書きだせないので、とりあず、ここでは日本の歴史書に出てくる海賊に関する記述をご紹介します。
 『日本書記』の雄略天皇の時代(469年)に、「播磨国御井隈に文石小麿呂というは力持ちがいました。気性が激しく暴力を振るい、道をふさいで人を通れなくしたり、船を止めて積荷を奪いました。その上、租税も納めなかったので、天皇は怒って春日小野臣大樹を差し向けて討たせた」というのです。
文石小麿呂が舟に乗って積荷を奪ったのか、津(港)に停泊していたのを襲って奪ったのかは不明ですが、どちらにしてもその行為は「海賊」と言ってもいいでしょう。 
その後、奈良時代まで海賊の記録は出てきません。記録がないから海賊がいなかったというわけでななく、国家の記録に残すほどの大がかりな海賊行為がなかっただけで、こそ泥的な海賊はいたと思います。
そして、いよいよ奈良時代の後期くらいから海賊の記録が次々に出てきますので、
このあたりが日本の海賊の本格的な出現とみてもいいのではないでしょうか。
写真:兵庫県姫路市網干 船渡八幡神社 揖保川の河口近くで、古代にはここまで海があったようです。
神社内には神功皇后の座ったという石も祀られています。

神功皇后は『日本書記』や『古事記』に登場する伝説の人だともいわれていますが、瀬戸内海には、神功皇后が三韓征伐の折に立ち寄られたと伝わる場所が幾つかあります。
仲哀天皇の皇后ながら、天皇の死後、朝鮮半島に兵を送り、妊娠中にもかかわらず陣頭指揮を執った女傑ということになっています。
しかし、ここで注目すべきは、日本が弥生時代といわれていた時代に、朝鮮まで大軍を送り、さらに勝利したというのです。ただし西暦200年頃のお話ですから、どこまで本当か?
中国の歴史書『魏志』「倭人伝」によれば、卑弥呼が登場する頃の話です。
卑弥呼の「邪馬台国」の所在すら分からない現在、三韓征伐なんて、信じられないというのが、これまでの歴史学の世界でした。
しかし、西暦662年に、朝鮮の百済を救援するために軍を派遣した斉明天皇という実在した女帝が登場します。業績をみると、神功宇皇后とほぼ同じようなことをしていますので、斉明天皇の足跡がそのまま神功皇后の足跡となった可能性もあります。
どうやら、日本の水軍は、女性たちがリードして創設されたとも言えるかもしれません。

神功皇后が立ち寄ったという伝説のある広島県福山市鞆の浦の沼名前神社