平安時代中期の承平・天慶年間(931~947年)中央政府の朝廷を震撼とさせた大乱が二つ連続して起りました。一つは関東を中心にした「平将門の乱」、もう一つが瀬戸内海全域を舞台にした「藤原純友の乱」です。
ここでは海賊ということから、藤原純友に関して考察してみたいと思います。
藤原純友は、藤原氏北家の家筋で、本来なら都での栄達も望めました。しかし、父良範が早くに亡くなったために、出世を諦めて父の従兄弟である藤原元名が伊予守に任命されたため、その縁で「伊予掾(じょう)」として承平二(932)年に伊予国府に赴任しました。「掾」というのは国府の三等官で、国府では三番目に偉いのですが、藤原北家の者としてはかなり不満な地位だったことでしょう。
そして、元名が任期を終えて伊予を去ったのちは、そのまま伊予に土着しました。
そして運命の承平六(936)年に、豊後水道に浮かぶ孤島「日振島」に船1000艘に載った民衆2500人が集結したのです。その頭領が藤原純友だったので、ここからが歴史学上は「藤原純友の乱」となるのですが、これはすぐに治まってしまいました。
そして3年後の天慶二(939)年、こんどは純友が日振島から出航して、瀬戸内海沿岸を襲撃する事態になって、本格的な乱となるのです。
果たして、この乱は純友が自ら望んで起こしたのか、純友自身は朝廷と戦う気があったのか。
さらに言えば、朝廷は純友を海賊だと思っていたのか。そして純友は自らを海賊の頭領だと思っていたのか。
藤原純友が伊予掾として赴任した伊予国の国府があった今治市。
JR今治駅前には「真田十勇士」の猿飛佐助の銅像があります。
猿飛佐助をスターにした『立川文庫』の創立者山田阿鉄一族の出身地が今治市という縁です。