男というのは、なんと単純な生きものか。
今日が決戦の日と心に決めて、泰子は携帯を握りしめた。
二度電話し、メールでジャブを挟みつつ、もう一度かける。10回目のコールでやっと出た。1人で飲んでいると言う。
店名は答えなかったが、電話越しの雰囲気からピンと来てしまった。経験上、このピンはあまり外れない。
最初に違和感を感じてからは早かった。
メールの文面、諸々のタイミング、そこはかとない距離感、今までにない優しさの着眼点。
端々に察知してしまう不自然さを、ついに無視できなくなってしまった。
驚いた、女の勘って本当なんだ。
初めて相手の携帯をトイレに持ち込み、妄想となじられた予想よりずっと生々しい現実を目にした時、泰子はショックを受けるより先に、本能に感心したのだった。
いずれにしろ誠実な対応を求めて、その後2週間程粘ったが、敬はのらりくらりとかわし続けた。
後はもう、実際に現場を抑えるしかないとチャンスを伺い、ついに今日という日がやってきたのだ。
はたして…
最初に目指した店に入ると、敬はちゃんとそこにいた。そして、見知らぬ女もちゃんといた。
こんな時ばかり、名探偵の如く冴え渡る自分もすごいが、店を変えない相手もすごい。
何故席までいつもと同じなのだ。伝書鳩じゃあるまいし。ん、ちょっと違うか。
大きく息を吸い、わき目も振らず近づいて行って、「それで。」と一言言い放った。
驚きとほとんど同時に、相手に浮かんだずるそうな気色を泰子は見逃さなかった。
どんなに問い詰めても認めなかった敬だが、もう言い逃れはできないと悟ったのだろう。
それでも、敬はつとめて平静を装い自分の隣を少し空けると、「とりあえず何か飲む?」と聞いた。
泰子が立ったまま睨みつけていると、敬は勝手に店員を呼び、店の看板メニューを1つ、追加で注文する。
こんな状況でも「気の利く俺」が大事かい!、と突っ込みかけてやめた。
泰子は黙ったまま、今度は向かいの女を見た。
若い。視線をできる限り落としているせいで、綺麗にカールしたまつ毛がやたら目につく。
唇を小さく噛み締めて、こちらは「何も知らない私」を体現しているかのようだった。
メールのやり取りを知っている泰子にとって、この態度はいただけなかった。
ついまた怒涛の突っ込みが溢れ出ようとしたが、ここは何とか華麗に終わらせたい。
息を吸い直して、泰子は淡々と、まずは事実確認から開始した。
やがて注文のドリンクが運ばれてきた。
同時に、予想外の形で終わりは訪れた。
敬がそっと、まだ立ったままの泰子へグラスを差し出し、無意識にてっぺんに乗っているチェリーをつまみかけ、やっぱり手を引っ込めたのだ。
その瞬間、保っていた糸がぷつりと切れた。
素子は左手でチェリーをつかむと、右手で残り、つまり生クリームたっぷりの一杯のシェイクを、思い切り敬の顔にぶちまけた。
そして、1度も振り返らず店を出た。
泰子には、真似してみたいデートがあった。
映画「パルプ・フィクション」で、ミアとヴィンセントが5ドルのシェイクを飲むシーンが憧れだった。
ネットで検索して、運良くそれをオマージュした"500円シェイク"を出す、この店を見つけた。
映画に疎い敬に一から説明して、すぐに2人の行きつけになった。
シェイクは想像以上の味だったが、てっぺんのチェリーはいつも残した。素子はシロップ漬けのチェリーが、昔から苦手なのだ。
だからパフェでもソーダでもパンケーキでも、敬が代わりに食べてくれていた。
その癖で、敬が先ほど無自覚にチェリーを手に取りかけ、対面の女を気にしてやっぱりやめたその一瞬で、もう完全に終わったと、泰子にははっきりわかったのだった。
泰子は悔しかった。
何が1番悔しいって、敬ではなく、その店を取られたことが。
もう二度と行くことはないだろう。
敬め、私が見つけたのに。タランティーノのタの字も知らなかったくせに。百遍生まれ変わったって、トラボルタの足元にも及ばないくせに。
しばらく夜道を駆け抜け、人気の無い駐車場を見つけて息を整える。ふと気付くと、左手にチェリーを摘んだままだった。
なんで持ってきたんだっけ。
捨てようとするが、思い直して口に放りこむ。
やはり不味い。
けれど、無性に悔しくて全部食べてしまった。種は豪快に吐き捨てた。
それから素子は靴を脱ぎ、不器用なツイストを踊り始めた。映画のダンスフロアを思い浮かべる。切ない気持ちになれるかと思い、目の前に想像の敬を召喚してみた。
だが、試みは失敗したようだった。絞り出そうとしても、涙は一滴も出てこない。
それは少し、救いだった。
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