言われなき苦しみ、耐えられないほどの精神的苦痛、ターゲット苦しめるためにありとあらゆることをしてくる人々…。
苦しみが成長につながることは一般的にも考えられることですが、限度を超えることも多々あります。
聖人と言われる人たちは多くの苦しみを耐えた人たちです。
聖人や修徳の本に書いてあることですが、私を苦しめる人は私の恩人、という考えがあります。これはよほどの人でなければこのように考えることは難しいのですが、けっこうキリスト信者の中には、このように受け止める人がおります。
自分に優しい人は、反対もしないし、私の成長のためには対して大きな原因とならない。(もちろん優しい人は別の意味でその人のために大いになっていると思いますが)。
しかし自分に反対したり苦しめる人がいると、どうしてもそれに対して取り組んだり、自分の欠点と取り組まざるを得なくなる。また時には自分の罪や弱さを認めざるを得なくなる。それで、人間的、霊的成長(カトリックではこんな言い方をします)が加速する。長足の進歩を遂げることになります。
「聖人になりたければ、苦しみを願いなさい」という言い方を聖人たちはよく言います。日本にも山中鹿之助の言葉に「願わくは我に七難八苦を与え給え」というのがあるようですね。
それで聖人に限らないのですが、自分を苦しめる人を最大の恩人と考える、ということになるのです。
考えてみると、私の場合も、被害者になってから思い当たることが多いのです。自分の意志の弱さから変えられなかったこと、ふさわしくない事柄などいくつかが無理やり変えられました。
変えざるを得なかったのは半強制的ですが、人間として、そしてキリスト信者として成長を願っているものとしては、「無理やりでも変えてもらってありがたい」ことがしばしばあるのです。
強制力というのは、人間のためにこういう意味があると思います。しつけの厳しい親、厳しい環境、軍隊など厳しい条件は、人間を成長させる。
いっぽう自由すぎて、お金に不自由しなくて、努力しなくても生きていける状態だと、限りなく自分が堕落する。
いずれ天に帰らなければならない者として、そしてこの世での使命を果たさなければならない人として、このような厳しい環境とは、意思に反していてもありがたいと思えるときがあります。当然いつもそう思えるわけではありませんが。
自分を苦しめる人が自分を成長させる、という考え、また天は私たちの成長のために苦しみや試練を与え、悪人をさえ用いる、という考えは、被害者を力づけてくれないでしょうか。