きっと、この被害者になると気持ちが真っ暗になるでしょう。

 

人によっては職も失い、友を失い、未来がなく、戦うすべも勝ち目もない。信じてくれる人もなく、毎日、苦しみを与えられる。

 

そんな中でなおも自分を保っていられる人はよほど芯があります。勝利を目指して闘いっている人、執念で戦っている人もいます。最近は被害者同士がつながり始めました。

 

私の場合は、天に頼るしかない、と考えています。キリスト者ですから信仰に頼ります。しかし、これがなかなか力強いのです。

 

ひとつは、次の世、という考え方が力になります。彼岸といったり、あの世といったり、天国、というのが一番良いでしょう。

 

この世ではさまざまな不公平や苦しみがありますが、次の世でつじつまが合う。つまり、正しい人苦しむ人には報いを、悪しき人・苦しみを与える人には罰を与える審判が待っています。

 

人はいずれこの世を去ります。被害者の苦しみにも終わりがあります。しかし次の世は永遠で、喜びにも終わりがありません。

 

反対に、悪しき者もこの最後の審判を免れることができません。恐怖のときです。そして地獄も永遠。この世の苦しみとは比較にならない苦しみが待っています。

 

聖書ではこのことをはっきりと教えています。世界中のキリスト者もこれを信じています。

 

聖書のルカによる福音書の16章にラザロという貧乏人と金持ちのたとえ話があります。ラザロは金持ちの家の前に寝起きしながらも、何も与えられず死んで行きました。そして神のもとへ行きます。金持ちも死んで地獄に行きます。

 

そのときの神の言葉です。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」

 

世で苦しむ人・貧しい人はそれだけで天に入る資格がある。いっぽう人を助けぬ金持ちや不正を行う者は地獄に行く。

 

ですから加害者と被害者はそれぞれの運命をたどるでしょう。被害者にとっては希望、加害者にとっては恐怖です。

 

これらの賞罰が死後にあることを知ることは、なぐさめになります。

 

そしてこの世でおこなったことは神に全て知られているだけでなく、「最後の審判」のときに、全ての人に知られると教えられています。人が隠れた行ったことも、そのときには全ての人の前で明らかにされる。わたしの友人にも知られる。

 

ちなみにカトリックでは、聖書の記述に基づいて、人が死んだ後にすぐに個人的に受ける審判(私審判)と世の終わりに全ての人が集められて行われる審判(公審判)の2つがあると教えます。もちろん、2つの審判の結果は同じですが。

 

公審判のときには、被害者を信じてくれなかった親兄弟、友人、その他全ての人も知ることになるでしょう。

 

そしていかに信じがたいこととはいえ、苦しみ叫ぶ人の訴えを真剣に捉えなかったことに対するお咎めがあるでしょう。

 

このことを考えていると、けっきょく自分だけが馬鹿を見て破滅してゆくというのではなく、将来、全てが明らかになるときがある、そして私は解放され、名誉も回復される、と自分をなぐさめ励ますことができます。

 

この世での解決が果たしてあるのかどうか、それは分かりません。可能性はあります。しかしそれが遠くて見えなくても、少なくても今のわたしを支えるために、「死後の裁き」を思うことは、少なからず心の支えになるのではないでしょうか。

 

私もこれによって支えられています。