(カリキュラムについて別記事で追記しました)

難関中高一貫校の進度について 中2で高校数学に突入することを除いて、それほど速くありません

 

ZARDの坂井泉水さんやかつて人間として生きた仲間のメッセージは本物だと思うけれども、それを発信しているクロムなる者がどういった方なのか全く分からないという声が聞こえてきます。

過去を語らないってRPGのキャラによくいますよね。

それは同情されるのが嫌だからです。最初に言っておきます。

神の化身である私に上から目線で同情するのなら、即刻このブログの閲覧をやめなさい。

 

幼少期から数字に異様なまでの興味を示し、それに目をつけた父親が公文式の算数の通信教材を紹介してくれ、なぜか開始教材を測定するテストで5歳児相応のテストが満点、さらに満点だったので1ランク上のテストも受けてそれも満点を取り、5歳児なのに小学2年相当のB教材から学習を開始しました。

公文式は中学生でもアルファベットから始めることもある、先取り学習の逆の方式で有名なので、私は異様なケースだったのではないかと思います。

ただ、この「自分は算数ができる」という成功体験が、後に中学に上がってから、なぜ自分は算数ができるのに数学「代数学・幾何学」が全くできないんだというコンプレックスにつながっていくのでした。

 

幼稚園では先生が厳しくたびたび嘘休みしていました。

見かねた両親が転園を決断、転園先の先生は優しかったためここでは適応できました。

しかし幼稚園でも画用紙に割り算の筆算問題を自作して延々と解くという、異様な行動をしていました。

 

ここまで読んで「ギフテッドだったのね」と上から目線で思われた方はさようなら。今すぐに私のブログから離れなさい。

 

小学校は荒れていない学区だったことも幸いし、私を含めていじめの少ない学年でした。

リベラルな風土と90年代という自由の風が吹いた時代背景も相まって、体罰を行うような教師が皆無だったことも幸いしました。

勉強ができるということで一目置かれていました。

ただこの頃から奇行が目立ち、「ある意味天才、ある意味変人」とは呼ばれていましたが。

しかしそれは悪口ではなく、私の本質を突いていたと感じます。

席替えでも一人ぼっちにならないタイプというか、声をかけてくれる仲間はいつもいました。

仲良しだったから言いますが、一番仲良くしていた子は全く勉強ができない脳筋タイプで、実際に底辺高校卒業で今もそれらしい人生を歩まれているのですが。

対照的だったから仲良しだったのかな。

 

(執筆時)ニュースはWBCの大谷和明ばかりうるさいですね。

野球……というかスポーツ全般、暴力的な勝利至上主義が嫌いです。

 

小学生の時、野球少年と仲良しでした。

スポーツ全般適性ゼロの私に一生懸命野球を指導してくれ、結局指導の甲斐も虚しくキャッチボールすら私はできるようにならなかったのですが、こんな私に野球を布教してくれた心意気は感謝しています。

中高と野球部だったのですが、その後は野球からは離れたと聞き、意外に思ったのが私の知る彼の最後の消息です。

 

それとは別に、家族で使っているからと、マウスウォッシュで口腔ケアしていていつも息がいい匂いなのが印象的でした。

私がマウスウォッシュを使っているのは他ならぬ彼の影響です。

野球は影響されませんでしたが、思わぬところで彼は私にいい影響を与えてくれました。

 

学校の勉強は退屈でした。

体育だけは授業内容についていけずヒーヒー言っていましたが。

自分から難しい勉強をしたいと通い出した中学受験の塾での3年間は、私の知的好奇心を満たしてくれるかけがえのない環境でした。

4科目全ての先生が当たり、指導のプロだったと今になって思います。

 

ただ、入塾時から受験時にかけて、段々と偏差値、校舎内の順位は低落していきました。

筑駒を第一志望にしていたのですが、落ちて第二志望だった開成に通うことになります。この選択が私の人生を大きく狂わすことになります。

今は開成、桜蔭に並ぶ最難関校になっている渋谷教育学園渋谷も滑り止めで受験していて(当時の偏差値は50台でした)、特待生(学費免除)で合格していたのです。

受験を終えた時から「もしかしたら受験者最高得点かも?」という手ごたえがあったので、特待生合格は驚きませんでした。

こっちに行っていれば、人生が狂うこともなかったのかな……としても仕方のない後悔をずっと続けています。

 

私立でもいじめはどこの学校でもあるでしょう。

ただ、私の学年は「数十年に一度」と呼ばれる荒れた学年でした。

荒れているのに組主任(担任のことです)が総じて放任主義で、何の対応もしなかったのも罪深いと思います。

当然奇行が目立った私も目をつけられ、陰湿ないじめを受け、所属していた部活動の退部に追いやられました。

ただ、部活動の退部という形でのいじめは、私の学年では当たり前のことで、いじめっ子は堂々と「うちの部活は〇人いじめて追放した」といじめて追放した人数を競い合っていました。

そういう人たちが医師や弁護士や官僚になっていったので、私の人間不信は極まったというわけです。

「こういう人たちが社会を動かしているんだ」と。

あと、中学受験で優秀だったのに入学してから滑落するパターンとして有名なのですが、私は英語と数学が全くできず、普通に試験勉強しているのにすぐに学年最下位をさまよっていました。

なので、いじめに加担しない中立的なクラスメイトからも「バカ」呼ばわりされていました。

本当に居心地が悪かったのですが、こればかりはどうしようもない。

英語は最初の定期試験からずっと赤点だったのですが、まぐれ(?)で赤点を脱したときは驚かれてしまいました。そういうイメージを持たれていた人間でした。

 

なので、うちの学校からICUに行くというのはあまりに不相応だったということもあるのでしょうが、後に大学で「本当に勉強ができるね」と言われ続けたことは、手のひらを返されたようでいい気持ちがしなかったです。

 

いじめと最下位人間のレッテル貼りを癒してくれたのが、PS1でリメイクされた「ドラゴンクエストⅣ」でした。

クリフトというキャラクターに惹かれ、彼と友達になりたいと思いを巡らせていました。

いや、空想で会話していました。

後に私の最側近であるリベラこと大天使ラファエル(写真右)がクリフトの姿で私を癒してくれたと分かり、驚愕したのはその遥か後です。

クリフトとカップリングのアリーナ(これも三女、写真左と分かり驚愕しました)も好きで、当時は同人界隈はネットが未発達だったこともありまだコンテンツが限られていましたが、「クリアリ」の同人小説の世界に没頭して心を癒していました。

 

中学3年と高校1年の2年間は本気で勉強したのですが、それでも学年平均がやっとでした。

平均に達せない科目も多く、性格が最悪な同級生に逆立ちしても敵わないという現実が本当に理不尽でした。

 

一般的には受験が近づくといじめは落ち着いてくると言われていますが、私の学年は逆で、受験勉強のストレスのはけ口のように昔いじめられていた子が再びいじめられるなど、荒れていました。私もターゲットの一人でした。

私の担当日の日直日誌にでかでかと「殺すぞ」と赤字で書かれたり、当番の私の名前に画鋲を打ち付けられたり、名前をぐしゃぐしゃにされて消されたりといったことは日常過ぎて痛みを感じないほどでした。

組主任は放任主義で、当番表を張り替えることすらしませんでした。

 

そして私はとうとう心が折れ、忘れもしない高校2年の7月4日に、自殺未遂を図ります。

そのまま精神科に搬送され、夏休みいっぱいは休みましょうということになったのですが、組主任たちは「他の生徒に悪影響が出るから」と私に厳しく口封じを命じるだけで何の対応も取りませんでした。

受けられなかった追試は0点扱いとなりました。

クラスメイト以上に最悪でした。

 

その後、保健室登校を希望するも、養護教諭にも「認められない」と突き放され、私は不登校となります。

この時に私の完全な人間不信という人格が出来上がったと言えるでしょう。

もう誰も信じられない。頼れない。

たとえそれが今している仕事につながっているとしても、いい経験ができたとは思えません。

 

当時の精神科はまだまだ閉鎖的で、私は病院でも酷い扱いを受けました。

とはいっても通院だったのですが、うつ病の薬だから絶対に飲んでくださいと言われていた薬が、実は統合失調症の薬であり、高校卒業後の転院先で(転院したのはもちろん不信が募ったからです)うつ病で治療を受けていたと説明したところ、

「紹介状には統合失調症と書いてありますが」

と言われて驚愕しました。

 

そして転院先で数回の受診を経て

「あなたは統合失調症じゃない。なんでこんな薬を飲まされていたんですか」

とはっきりと否定され、投薬もなくなりました。

(いや、私が怒られる立場ではないのですが)

 

話を戻すと、とにかく眠く、勉強が全くできませんでした。

そして残念なことに、当時の私にはそれが薬(具体的にはセロクエルという統合失調症患者に用いられる眠気を催す薬です。と今になっては分かるのですが)の影響だとは分からず、さらに病名を隠すためか、院内処方で薬の名前や説明すら受けられていなかったのです。

ただ、私が最初に通院した病院が悪かったのではなく、当時の精神医療はまだまだ遅れたものだったのでしょう。

 

もう組主任たちとの関係は冷え切っていましたが、「東大に受かる見込みがないなら商品(=生徒)じゃない」というスタンスで(私に限りませんが)受験はどうぞどこでもご勝手に。と言われたも同然でした。

進路指導の際、ICUと青山学院と志望先を書くと、親に組主任は「うちの学校からはそんなところに行く人がいないので、データがありません」と突き放して親も不信感を抱いていました。

 

受験勉強が殆どできない中ICUに合格したのは、ICUの試験が知能検査のようなものだったからなのが大きかったです。

ちなみに今は試験制度が大きく変わり、私のアドバンテージになったこの試験は消滅してしまいました。

ただ私は、合格の喜びよりも、私(や他のクラスメイト)を破滅に追いやった奴らが、大げさではなく総じて東京大学と難関医学部に現役合格していった現実に、改めて「憎まれっ子世に憚る」を感じて打ちのめされたのです。

 

この時点で、私は一般の企業社会で出世を争うような生き方はしたくないというか、できないなと確信したのです。