私と同世代かそれより少し年上の浜っ子

それも横浜駅周辺に育った浜っ子にとって「反町公園」には懐かしい思い出がきっとあると思う。反町は「たんまち」と読む。「はんまち」「そりまち」とは読まないように。
 
東急東横線反町駅から少し歩くけど
私は家族とは父の運転する車で、友達と行くときは市営バス24系統(当時)の横浜駅行きに乗り、反町公園前で降りた。するとすぐ目の前に反町公園が広がっている。
 
ここには大きなプール(冬はローラースケートリンク)と室内アイススケート場があった。アイススケート場はフィギュアの選手の練習場としても使われていたらしい。中学の時、卒業生がオリンピック出場を果たし、校長が朝礼で「彼は反町のスケートリンクで練習し」と話していた。彼は残念ながらメダリストにはなれなかったけど、母校の誇りだ(と思って、名前を調べたけど、なかなか見つからない。代わりに卒業生にむろつよしの名前を発見した。好きな俳優だから嬉しい)。
プールはプールで、子供達に夏の水泳教室を企画してきた。私もたしか小1の頃、ここでようやくバタ足で泳げるようになった。
ここは、ちょっとしたスポーツ文化の発信基地だったのだ。
 
歩いていける近所にも市営プールがあって、私はそこに中1の夏休み毎日一人で通って、ようやくクロールで25m以上泳げるようにようやくなったのだけど、そこはただの25mプールにすぎない。
 
反町公園のプールは何かキラキラしていた。
プールサイドにはフランクフルト等を売る店等があって、プールの外には公園の緑。
子供用の浅いプールが半円形に繋がっていて、夏休みの日曜日などはまるで豊島園の流れるプール並みに混んでいた。
 
 

 
更に・・・
公演にはロケットジェットコースターやゴーカート練習場、小さな遊具もあって、
そこは立派な遊園地だった。
 
証拠の写真である。しっかりとロケットジェットコースターの文字が読み取れる。
 

 
父の運転するゴーカートに乗って手を振る私。
昭和7年生まれの父はこんな帽子をかぶっていたんだねぇ
 

 
もう少し大きくなってからも怖がりの私はジェットコースターに乗るのが怖くて、さんざん嫌がった。でも父に説き伏せられて初めて搭乗。
降りてから貰った記念ワッペン(🐻くまさんか🦁ライオンさん)がその分とても誇らしかくて、しばらく大切に持っていたものだ。
 
七色の大噴水もあった。
ここにはみこママにも登場いただこう。

当時の若きミセスのファッションですなぁ。ウエストが嘘みたいに細い!
 
当時の横浜市民にとって、遊園地と言えばドリームランドか、東横線で行ける二子玉川園、もしくは川崎の向ヶ丘遊園。そして遠足は子供の国っていうのが定番だったけど、反町公園はもう少し身近な、普段着の遊園地だった。
 
そんな反町公園、少しずつ遊具が撤去され、プールもなくなり、今は室内アイススケートリンクと広々とした緑の広場しか残っていないらしい。市民のお散歩コースといったところか?
 
今回、反町公園の歴史を調べようとWikipediaやグーグル先生で調べて、ここはその昔、遊郭があった場所だと知った。その名も反町遊郭。東海道の神奈川の宿とはこのあたりだから、宿場町の面影のあるところだったのだろう。
しかし、第二次世界大戦の横浜空襲で遊郭は全焼。戦後はアメリカに接収される。
なにやら切ない歴史が垣間見えてきた。
 
この地に遊郭があったことを私が知らなかったように
ここが立派な遊園地で賑わった頃の事を知る人は少なくなってきたようだ。
「幻の反町公園」というワードも出てきた。
これらの写真もいつか貴重な記録になるのかもしれない。