オーストリア帝国の最期の皇后エリーザベトは、バイエルン王国(ドイツ)の王家に近い公爵の公女として生まれ、乗馬、狩りに出かけ、犬と遊び、湖畔で水泳やボートを楽しむ活発な少女時代を過ごした。
皇妃となってからも、専用の鞍にロングスカートで横乗りするエレガントな乗馬、アマゾネスで全力疾走した。狩猟や競技会はアクロバッテイングな乗馬でオリンピックの選手並みの腕前。ほっそりとしたドレスに長い髪を頭上にまとめ、シルクの帽子の優雅な乗馬ファッションに「皇后は天使のようだが悪魔のように馬を駆る」と称された。夫の皇帝フランツ・ヨーゼフにねだって、名馬を揃えた。お気に入りの名馬にまたがった自身の姿を肖像画に描かせた。馬術を磨くためイギリス、フランス、アイルランドへ渡航、ハンガリーに専用の馬場を建てた。乗馬や旅でも夫が送金したお金は使わず、私費で賄ったそうです。
師事した馬術教師ミドルトンが結婚すると33歳ぐらいから10年間、熱中していたのに、ばったりと止めてしまった。
また、愛犬家で大型の犬が好きだった。
エリーザベトにとって、心安らぐ場所だったのは、当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーだった。戴冠式を行った教会、専用の観覧席があるオペラ座、通ったカフェ、お気に入りの離宮のあるブダペストをたびたび訪れた。
姑の大公妃ゾフィーがハンガリー人嫌いだったこともあり、反動でハンガリーびいきになった。短期間でハンガリー語をマスターし、夫の通訳をこなすほど、堪能になった。
ハンガリーへのこだわり。侍女をすべてハンガリー人で固め、ハンガリー語を話した。その理由は政治的なものではなく、童話の国のような尖塔、オリエンタルな雰囲気の草花の文様の建物の街が、ファンタジー(空想、幻想)の内的世界にマッチしたのだろう。
が、結果的に、エリーザベトは愛するハンガリーのため、帝国の支配から自治権を認めるよう、夫を粘り強く説得した。政治に無関心というわけでもなかったんですね。ヨーゼフとエリーザベトがハンガリー王とハンガリー王妃になることを認める代わりに事実上の独立国となった。
従者には、控えめに振る舞うこと、結婚をしないことを要求したそうだが、エリーザベトの最期に付き添っていた女官は伯爵夫人だった。王妃の身の回りの世話をするのは小間使いではなく、身分の高い貴族の夫人だった。
ハンガリーやギリシャの島、ナポリ、バルセロナ、フランス、アムステルダム、イギリスなどを巡り、旅に明け暮れた生涯。ウィーンの宮廷から国外にお召し列車、大型ヨットで旅立ち、お気に入りの滞在地に別荘を建てた。旅は、半年、半年以上に及び、皇后としての国威を挙げる国事行事、外交の公務、宮廷行事にも参加しないことが多かった。王室はその対応に追われた。
非公式とはいえ、専用の列車と大勢のお供、コックさんや新鮮な卵を生む鶏やミルクを出すヤギも連れていった。莫大な費用がかかったが、夫は充分な送金をした。
お忍びだったため、専用の列車の外観は紋章もなく、地味だが、内部は贅を尽くした造りだった。
旅先に立ち寄った各国の駅舎、それも豪華な部屋が用意されていた。行く先で歓喜と歓迎の嵐を浴びた。エリーザベトはそれが心地よかったのだろう。自分が常に周囲のスポットライトを浴びていないと気が済まない。
これは、やりたい放題というより、挫折感がその後の人生に暗い影を落とした。
逃れる皇后、大公妃ゾフィーを束縛に感じると、愛馬で宮廷を飛び出し、遠乗りをする、公務を嫌がる。すぐに体調を崩し、転地療養に出かけ、退屈するとウィーンに戻ってくる。
子供を取り上げられたという大義名分や、理想の皇后として振舞えないという言い訳が必要であった。それがあったから、免罪符として、国外に逃れるように旅をし、乗馬にのめりこめたのだろう。
圧迫されると、落ちこみ、恐れてそこから逃げてしまう。責任を負わないため、子供を取り上げられた時も、諦めに縛られ、口を出すことができなかった。(初めての子ゾフィーを死なせてしまった悲劇の自責はあったが) 漠然とゾフィーの息のかかった女官や宮廷に脅威と息苦しさを感じ、うつ状態になった。
気持ちの中で一歩も二歩も引いてしまう、本当の友情、絆、つながりも起こらなく、連帯を生めないし、連帯の輪の中に入れない。ゾフィー亡き後も、宮廷や国内ではますます居場所がなくなった。
「ここにいても良いのかな」「ここにいちゃいけないんじゃないか」「間違ってここに来たんじゃないか」と、気分を変えるために、ストレスのもとから離れる転地療養が、「自分ではなく、誰かが代わりにやればいい」の気持ちを強くしたのだろう。
宮廷と夫と子供たちから、そして国民から目を背け、「愛されない」「誰も自分のことを分かってくれない」と、遠く離れようとした。
著作権フリー
その行動が際限なく、エスカレートし、夫に女をあてがって、ほとんどウィーンの宮廷にいない。自分のこだわりがつまった、豪華なお召し列車に揺られ、また旅に出る。現実逃避。
わがままが通る環境だったが、逃げるように宮廷を出ても、憂鬱と賞賛、孤独に心は揺れ動き、ひたすらに自分の美貌と体型、ファッションに執着した。初めは称賛、夫の愛情を維持するための義務だったのが、医師や周りの忠告は、食生活以外、聞き入れない強迫観念となったのか。
お召し列車の豪華さがドレスのロマンチックさ、美貌が彼女の苦悩、孤独を見えにくくさせている。
晩年の皇妃は、カメラを向けられると扇で顔を隠した。35歳から写真を撮らせなくなった。肖像画のモデルになることを断ったので、想像で描いたそう。間違った美容法でしわやしみに悩まされた。顔色はものすごく悪く、貧血、胃腸はけいれんを起こしやすく、何日も苦しんだそう。神経痛にも悩まされ、療養目的で温泉地に旅をした。晩年は公の場にほとんど姿を見せず、扇や傘、厚いベールで顔を隠していた。神秘性は高まったが、どんどん引いていく。美貌が拠り所だったのだろう。
自分の殻に閉じこもり、皇后としての要請や全体から要請されていることが分からない孤独な利己的でもあったが、当時の王室では異例といわれるほど、病人や弱い人の立場に寄り添う博愛心に溢れ、慈善事業に関心があった。プリンセス・ダイアナみたいですね。
夫に聞かれ、プレゼントに精神病院が欲しいと答えた時もあった。
あれほど確執のあった姑ゾフィーを献身的に看病し、そばを離れなかった優しさもあった。
だが、人を寄せつけぬところもあり、気が合う人、親交を結んだ人が限られていた。
つかの間の家族が揃う機会、豪華な料理を前に、会話がなく、沈黙の気まずい雰囲気が流れる。本来なら楽しいクリスマス。だが、皇帝一家のクリスマスは義務的に家族で過ごすだけ。たくさんの女官、侍女にかしずかれて、豪華であってもよそよそしく、堅苦しい宮廷のクリスマス。
22歳で結婚してから、婚家で初めて迎えたクリスマス、使用人達も一緒に打ち解けて、よく笑って、皆で楽しく過ごしたクリスマスを、「最高の一日」と興奮まじりにマリー・ヴァレリーは日記に綴る。家族の楽しい会話も、子供たちを見守る両親の笑顔、子供らしく笑うことも知らないまま大人になってしまったマリー・ヴァレリーや長女のギーゼラは、結婚して、やっと家族の温かさを知った。
宮廷、家族から逃れ、皇后の義務を果たさずその特典と尊厳だけを享受した無責任な母親。
だが、31歳で、ハンガリーで産んだ3人目の末っ子のマリー・ヴァレリーは、ハンガリー語を教え、自分の手元で育てた。母と慕ったのは、マリー・ヴァレリーだけだった。17歳ぐらいまで、母の旅に同行したので、語学が堪能であった。マリー・ヴァレリーは、成人するとハンガリーの王女であるより、ハプスブルク家の皇女として、父である皇帝フランツ・ヨーゼフに愛されようとした。
わが子に対する愛情があっても、うつろな虚しい心を抱えていた。薄かったのだろう。母の死を知ったマリー・ヴァレリーは、(どこにもとどまることができず彷徨した魂が安息の地を得た)と、どこかホッとした表情だったそうだ。
(もっと、どうかしなくちゃ)ではなく、(誰かがどうにかしてくれるんじゃないか)と、夫が子供たちのために宮廷に留まるよう懇願しても、無責任、無関心に傾いてしまう愛だったのだろう。自分の喜び、悲しみだけしか興味がない無関心。気分によって、過干渉と拒絶が繰り返し現れる無責任さ。
熱中するストイックさと凝り性だが、ダイエット以外は飽きるとあっさりやめてしまうところもあった。
ハンガリーの自治権回復に寄与し、ブダペストは「ドナウの真珠」と呼ばれる美しい街に生まれ変わり、エリーザベトは、「バイエルンの薔薇」と、ハンガリーの国民からは愛されたが、
オーストリア帝国では、旅や美容、趣味に税金が使われることに、公の場に姿を見せない皇后に、民衆の不満が高まっていた。広大な領土で独立運動が起こり、鎮圧するのに、軍備費が財政を圧迫した。凶作で民衆は飢えていた。
「贅沢だ」「なぜ、旅行を許しているのか」「おかしい!」「狂っている!」と宮廷内部や国民のひんしゅくをかい、苦言や批判は高まった。
国民や宮廷がもろ手を挙げて賛成した訳ではなく、なぜ、可能だったのか。それは夫が叶えようとしたからだ。そして、贅沢をしたわりには、夫が送金したお金は使わず、私費で賄ったり、投資信託などで多額の財産を長男の娘に遺したりした。ダイアナ妃の遺産で暮らすハリーみたいだね…
母に似て、繊細で自由主義思想をもっていた長男ルドルフが、帝政の保守的な父と対立し、政略結婚も上手くいかず、愛人と心中した。52歳だったエリーザベトは、ずっと喪服をまとった。
そして、宮廷を抜け出し、お召し列車でお忍びの旅を続ける。ウィーンの宮廷から遠く逃れたいと、強迫観念に突き動かされたのかもね。そして、「逃げたい」という動機から始まった旅は、スイスのレマン湖のほとりを散歩中に無政府主義の青年に暗殺されることで終焉を迎えた。60歳だった。
エリーザベトは、趣味に熱中し、贅沢旅行を繰り返し、幸せだったのだろうか。心から愉しかったのだろうか…
親交のあったフランス最後の皇后ウジェニーは愛する息子、故郷の家族を次々に亡くしたエリーザベトを、「魂が別世界を漂っているようで、なんだか幽霊と一緒にいるみたいでした。」と回想した。ますますニヒリズムを強めていった。迷いはより深い迷い、やりもしないのに、対峙せず、ますます叶わない、出来ない現実を作り出し、希望を失った心だったのだろう。
こちらもどうぞ☆お読みください♪
こちらの記事は、サロン・ド・イグレッグさんの記事です。とても、面白いです♡ まるで見てきたかのように、ドラマの脚本のように詳しく描かれています。よろしかったら、こちらの『皇妃エリザベートシリーズ』 もお薦めですよ☆