ラムセス2世は、アブ・シンベル神殿をエジプトの最南端、スーダンの国境近くにヌビア(スーダン)地域への牽制のために建てた。ヌビア地域は金の産地であり、南から来る者に威圧感を与えるため、ナイル川の対岸からでもはっきりと見えるよう外側に巨大なファラオ像が設置された。

 

著作権フリー アブ・シンベル神殿

 

 ヨーロッパでもローマでも外国の使者が宮殿を見れば軍事力以上の心理的圧力を感じるよう、豪華に荘厳に、経済力を誇示した。軍備よりも宮殿や宝飾品の豪華さが心理的圧力となった時代。
 シナイ半島北部、スエズ運河近く、イスラエル国境に近くに、テル・アブ・セイフ(Tell Abu Seifa)遺跡がある。東方(パレスチナ・レヴァント)からエジプトに入る旅行者が最初に立ち寄る場所として設計され、「エジプトへようこそ。これが我々の黄金時代だ」とラムセス2世の壁画が見つかった。軍事拠点である国境の砦都市・ホルスの軍道(東方国境防衛線)を訪れた人に王の威光を示すためであった。
 今は観光地となり、エジプトに外貨を落としているが、アブラハムの時代は国際交易ルート(海の道・王の道)が整備され、オアシス都市には日干しレンガの平屋が点在し、市場と井戸に人が集まり、遊牧民の幕屋と都市住民が共存する地域。王と呼ばれるが首長が治める小王国の連合体。キャラバン(caravan)で往来する商人の活気もあった、エジプト、メソポタミア、ヒッタイト文明が交差した、緩さもあった素朴で流動的な時代。

 

コパイロット作成画像 まだ本は無かったパピルス、巻物

 

 ヨセフの時代には、ナイル川沿いには神殿、巨大な穀物倉庫、行政官の屋敷、倉庫群、兵舎が整備され、張り巡らされた運河にはヤシの木とレンガ造りの長屋が並んだ。穀物政策のため書記階級が強かった。管理され整然とした街路と、アムー/アジア系外国人(Asiatics)が住み始めたデルタ地帯の湿地の時代。

 

コパイロット作成画像 ヘブライ人が住んだゴシェンの湿地は王宮の中心部から離れていた。

 

 モーセの時代には、巨大神殿・記念碑・要塞都市がどんどん建設され、石造建築・彫物が増え、王の墓、神殿は巨大な門・塔門・戦勝記念碑で圧倒する、壮麗に華麗に鮮やかな彩色で装飾された美術、芸術が埋め尽くすプロパガンダ都市であった。軍事拠点が国境沿いに連なり、国境都市は要塞化し、軍隊、役人、職人が大量に駐在した軍事国家の時代。

 

コパイロット作成画像 「ピ・ラムセス」の巨大塔門・王宮・オベリスク・スフィンクス参道とピトムの巨大倉庫群とレンガ積みの労働。彩色壁画がおかしい…

 

 砂埃の舞う砂漠の道、オアシスから、運河の行政都市、遊牧民が住みやすかった空気感の漂うヒクソス王朝を経て巨大神殿の帝国、異国に目を光らせる軍隊増強の駐屯要塞都市。
イスラエルの民がゴシェンの地からスコト、エタム、またミグドルと海との間にあるピ・ハヒロト(Pi-Hahiroth)の手前、バアル・ツェホンの前に宿営した。そのルートはペリシテ街道ではなく、葦の海に通じる荒れ野に迂回させられた。イスラエル人の脱出ルートは不明である。シナイ(ホレブ)山・葦の海・スコト・エタム・ミグドルが元来どこであったか特定できないからである。候補からして3つのルートが考えられる。北方ルートと中央ルート。3~4世紀以来カトリックの伝統が考えてきた南方ルート。

 金の仔牛事件について考えてみましょう。
エジプト文明の中で育ったイスラエル人は、自然に思い浮かべる新王国の王権儀礼、神殿文化、聖なる雄牛信仰であっただろう。まだ心はエジプト(奴隷状態)にあるのか!
アピス神(Apis)メンフィスの聖なる雄牛は王権と豊穣の象徴であり、メネウィス(Mnevis)  ヘリオポリスの聖牛は太陽神ラーの化身であり、ブキス(Buchis)テーベの聖牛は戦いと力の象徴であった。
イスラエルの民は巨大神殿建設労働をさせられていたため、王権の象徴を日常的に目にし、イメージが深く染みついていたのだろう。
巨大な神殿の入り口に金や青銅で作られた神像・聖獣像が並んだ。巨大な聖牛像・金箔を貼った神像・王が神に供物を捧げる壁画・神殿の前庭に並ぶ聖獣の像。イスラエルの民が見てきたのは、神は金で作られた輝く像として現れるという帝国の威光だった。
 子牛(カーフ)、エジプトでは、若い雄牛は生命・力・豊穣・繁栄・太陽神ラーの力ある神の象徴とされていた。

 

著作権フリー バチカン美術館 モーセか怒涛天を衝くで石板を割りそうだが、ローマ帝国ではエジプト風の神像を庭園や神殿に飾った。ローマ帝国はキリスト教の国教化の歴史に深く関わる。ローマとエジプト文化の融合の時代であった。

 

「見える神像」を求めるのは自然な心情だったが、金の子牛はエジプト的な神像の形で再現しようとした、ヤハウェの代理像だった。イスラエル人はヤハウェ信仰を捨てたのではないが、「これがあなたをエジプトから導き出した神だ」(出32章)として作られた。これがモーセの激怒の理由。モーセだけが神に出会っていて、他のイスラエルの民を連れて行かなかったから、エジプト文化の中で育った400年の記憶がヤハウェを見える形で表現しようとした民の心理があったと思われる。

 そして、これはプロテスタントのカトリックの聖人崇拝批判にも近い。カトリック側は想い起こす物、信仰のモデル、聖人に向かって祈っていない、取り次ぎだとプロテスタント側に説明するが、その時の民の心理とモーセの激怒を思い浮かべるとプロテスタント側の言いたいことも分かる。そして、人間は場所の記憶を携えて旅をするもの、場所の記憶が蓄積され、人生を形作っていくものだと実感する。

 モーセだけが神と出会った。民は山のふもとに残され、神の声も、神の姿も、神のしるしも見ていない。民はモーセの神体験を共有していなかった。40日間、指導者が不在、「モーセはもう戻らない」と感じ始めていた。
エジプトでは日常的に、神像・神殿儀礼・聖獣・王の祭儀が目に見える形で行われていた。
しかし荒れ野では何もない。神の不在を感じた時、不安から代理像を求める心理は理解できる。
 抗不安行動・セルフ・ソージング(自己鎮静)、五感で副交感神経を刺激することで自分の心が穏やかになる療法がある。
見ることで落ち着く本・漫画・映画・絵画・街並み・動物・植物、耳栓で嫌な音を遮り、好きな音を聞く音楽・環境音・自分を支える言葉の肉声、香りで落ち着くアロマ・花を飾る・ペットの匂いを感じる、好きなものを食べる、カロリーとの葛藤はあるが、ご褒美と折り合いをつける、触れることで安心するぬいぐるみ・クッション・ペット・服の生地、柔らかいものは副交感神経を優位にするためである。
 これは誰もが無意識に行っている抗不安行動であり、それぞれ自分が落ち着く物は違う。

 モーセよ、モーセの単独での神体験が民の不安を生んだんだよ。そして、それはアロン、モーセが約束の地に渡らなかった伏線となるのである。モーセは神の存在を直接体験したが、民は神の存在を間接的にしか知らない。
モーセが不在になると、民は神も不在と感じる。神父に依存しているカトリック教会も似たようなものだ... 「モーセは物質的な奇跡を起こし、仲介をし、導いた。だけど皆がモーセを頼ってしまう。モーセは足跡を残さなかった。自立を願われた」と神父が言いました。
 民は自分たちのエジプトの記憶をデトックスできず、心が引き戻されてしまう。
スコト(エジプトの国境小屋群・補給所)、ミグドル(監視塔・要塞)、ピ・ハヒロト(行軍が封じられる袋小路の狭い谷口)を通り過ぎ、荒れ野へ入ると、帝国の秩序・軍事的保護も都市の便利さ・食料の保証も遠ざかり、荒涼とした岩地と砂漠が広がる。民は無の未知の荒野に放り込まれた。

 バビロン捕囚からエルサレム帰還後、名もなき預言者やエッセネ派、クムラン共同体、洗礼者ヨハネが砂漠に向かったのは、バビロンの神殿、ペルシアの行政に組み込まれた宗教、ギリシャの哲学、ローマの皇帝崇拝から離れるためであっただろう。ヤハウェ信仰の恢復のためにはその影響を最小限にする、いつの間にか流れ込んでいたものを脱ぎ捨てるためであったのだろう。
 約束の地に入るのはエジプトに懐かしさを感じることが少ない新しい世代、ヨシュアとエルアザルが中心となったのだろう。